ふりかえれば、君がいた。

池の水が、冷たげにみえる季節になった。水面をながめていると、ふっと、池のそばにいた黒白猫のことを思いだす。

駐車場に車を停め、池のまわりの遊歩道を歩いていると、よく池を眺めていた黒白猫。人懐こくてさまざまな呼び名でよばれていた。私はなっちゃんという名前に親しみを覚えて、そう呼んでいた。(自分も旧姓のころはそう呼ばれていたから)本当は、夏の介とでも呼びたいところだったが。

よく駐車場の入り口あたりに寝転んでいて、人が近づいても逃げず、子供に撫でられても平気で、人気者だった。

存在自体がひょうきんで、私も大好きだった。

けれども、今年の春ごろからなんだか痩せてきたように思い、餌をやっている方に尋ねてみると、風邪をひいたらしくて、病院で注射を打ってもらってきたのだという話をしていた。

それでも好奇心が旺盛なのは相変わらずで、なにか人が集まっていると、興味深げにみつめていた。

彼はここが好きで、よくここで寝そべっていたから、猫大明神の異名をとり、手をあわせる人もいたほど。ファンのおばちゃんが観光客に説明するほどで、彼の人気は絶大なのだった。

今年の夏の暑さは格別だった。秋になってもあまり姿をみなくなり、先月あたりからはまったくみかけなくなったので、ボランティアの方に尋ねてみると、「死んだのよ」という話。絶句した。「病院に連れていったあと、しばらく姿を隠していたのだけど、近くの民家の裏庭で動けなくなっていたのよ」という話。それですぐにまた連れて行ったのだけれど、その夜にね、いっちゃったのよ。でも、病院だったから、まだよかったよ」。

三、四年ほど前に捨てられたという夏の介。捨てられたことなどなんも気にしていないような、のほほんとした顔で、喧嘩をしかけられてもしらんぷり。新入りの猫がいれば、自分の場所を譲ってやるような、そんな猫だった。こんなに性格のいい猫を捨てた人は、いったいどんな人だろう。

でも彼はたくさんの人に癒しを与えてきたから、きっと天国でも人気者だろう。彼がいなくなった今でも、ふっと振り返るとそこにいて、のほほんとしてるような気がしてならない。

相手が人であれ、動物であれ、別れぎわに私は振り返るほうだ。そして猫も、よく振り返る。こちらが振り返ると、猫も振り返っている。そんなことがよくある。

猫の背中は、いつもなにかを語っている。そんなふうに思うけれど、まる子は餌を運んできてくれる人が早くこないかなあと、ただ単純にそう思っているだけかもしれない。

別れぎわ、つい振り返ってしまう自分。一度も振り返らずに行ってしまう人との別れは、ひんやりとした記憶となって残る。

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