些細なことに傷つくなんて

れんげい゛

公園では、早咲きの桜が咲きはじめた。

柏屋という施設に用事があって寄ったら、この雛たちに出会った。どうやら、さっきまで遊んでいた様子で、ずいぶんと髪が乱れている。ここのおじさんが抱えて近寄ってくる籠の中で、五人囃子や三人官女と一緒にころころと転がっていた。

あまりの可愛さに手に取って近くの台に並べたら、しっかりお雛様の佇まいになりましたが、今にもまた遊びだしそうな楽しい雛たちです。

こちらの雛は、ときどき立ち寄る蔵カフェにあるもの。こちらもわらべだけれど、お行儀がいい雛たち。

人形には魂が宿るという。悪魔も神様も。まして、人間は鬼と仏が混在する生き物ということなので、他人の言葉をいちいちまともに受け取っていたら、身が持たない。

けれど、やっぱり気になるときはあるもので、どうでもいいことが気になるところは、猫と似ている。

三毛子、なぜか、ここにご執心

他人の言葉に鋭敏な人は相手の感情にも神経質になりがちで、エネルギーがどんどん消費されることになってしまう。それが弱みとなって、誰かの感情のはけぐちにされてしまうこともある。

でも、そこがどんな場所であれ、とりあえず心地よく過ごそうとするのが猫。見習って、毎日、どうしたら気持ちよく過ごせるかなあと考えていると、いやなことはあまり考えないようになってくる。

どうもうまくいかないなあと感じる人とは距離をとるようにし、それができないときには気持を正直に伝えるようにすると、こちらが勝手に重く考えすぎていることに気づくこともあり、反対に、きっぱりと離れることになって整理がつくこともある。

自分だって、そのときの心のあんばいによって、ちょっと意地悪なことを言ってみたくなるときもあるんだし、それはもうおたがいさまってことにして。

そう考えて暮らしていると、いい風が吹いてくる。だからといって、些細なことに必要以上に傷ついて、鬱になったり勝手にみじめになっていた日々は無駄ではなく、ちゃんと心の肥料になっていて、時間がかかっても、また新しい芽が出てくるようです。

今日も、親切なおじさんが水琴窟の説明をしながら、澄んだ雫の音を聞かせてくれて、これから飾るというお雛様も見せてくれた。それが、上のお雛さま。

この庭の筋模様もたぶんおじさんが、毎朝きれいにつけているんだろうなあと思いながら、じっと見ている私に、ここ歩いてもいいんだよ、と笑った。まるで私の心を見透かすように。

たしかに私は、ああ、こんなにきれいなところに足跡をつけてみたいという欲望につきうごかされていたわけで、そのうえ、こんなところに猫の足跡があったら面白いのに、などと、よからぬことを想像していたのです。

でも、おじさんは、そんなのたいしたことじゃないんだよ、と言いたげだった。そんなのたいしたことじゃないよ、と、なにかあったときには言ってみるのもいいかな。