スケジュールに余白があると、とても不安になる症状を「空白恐怖症」というのだそうだ。
いま、流行りの言葉、「承認欲求」の強い人に多い傾向があるようです。
自分が忘れられてしまっている、誰にも認められないというう不安にかられてしまうんだそうです。
それで思いだすのは、山形に移住したときに出会った人。
会うと必ずといっていいほど、赤い革の手帳を開いて、「ほら、こんなに予定がいっぱいで、毎日忙しい」というのが口癖だった。
対する私はといえば、見知らぬ土地で知る人もなく、出かけていかなくてはならない場所もなく、ほとんどなにも予定がなかった。
それで、毎日、庭に出ては草をむしっていたのだが、彼女は通りかかると車から降りてきて、「こんなことばかりしてて、時間の無駄だと思わないの? むなしくないの? ボランティアをするんなら紹介するわよ」と、心配してくれた。
彼女はいわゆる土地の名士のような存在で、ボランティアをいくつも掛け持ちし、さまざまな場所に出入りしていて、あちこちで必要とされる存在だったのだ。
彼女は、知人も友達もいない私と偶然に知り合ったことで、孤独な私のことを支えていかなくては、と思ってくれていたようだ。
なのに私はといえば、彼女と全く反対で、予定が詰まったり、予定が入っていると落ち着かなくなるような性格。
予定があると、それに縛られることが苦痛な性格だから、彼女のびっしりと予定が詰まった手帳を見ただけで、息苦しくなるほどだった。
私はこの人のようにはとても生きられないから、これでよかったのだとあらためてそう感じた。
誰の役にも立たず、なにかのグループに属することもなく、ただ毎日、草を取ったり花を植えたりして、それで終わる人生もありかなあと考えていたのだった。
だから、彼女の勧めにはあまり乗らなかった。
すると、彼女は言った。
「そんなに暇で怖くないの? 誰にも必要とされないし、誰にも認められないで」
「怖いわよ。でも、毎日、なにかに縛られるほうがもっといや」
彼女は私に呆れたらしく、それからはあまり誘ってこなかった。
そんなときに、猫がきた。
それが猫とのつきあいの始まりになった。
誰かに近づきすぎると疲れるし、離れすぎるのもさびしい。
親しい友と呼べる人が少ない人生のなかで、猫たちは私の寂しさを埋めてくれた。
結局、暇すぎるのも怖いし、全くの一人も怖いのだということを認めることにした。
どちらもほどほどがいいのでしょうけれど、それもまた難しい。
だから、そばにいるモフモフ猫や、公園の猫たちに救われているのでしょう。