小さな希望

どれだけ頑張っても夢が叶わないことを悟ったから、夢なんか見ないことにした。
みんな、希望を持てというけれど、そんなもん、もう何年も遠ざかったままだ。
自分をとことん傷つけたやつのことを許せるのか、と思う自分も情けない。

けれど、ある朝、気づいた。
もういいじゃない。なにもかも過ぎ去ったことだと。
きょうはきょうの日のまんま、すんなりと気のおもむくままに暮らせばいいじゃないかと。

胸の中を覗き見るのはもうやめようと。
情けない自分も恨みがましい自分も、そんな自分でもいいじゃないの。
あるがままに認めてやらなければ、誰が自分を認めてくれるだろうと。

【古墳の丘のケヤキの木】

今日は今日とて、気分よく暮らせるようにしていれば、それでいいじゃないの。
けさのコーヒーはうまいなとか、ミーナはご機嫌でよかったとか、それから、けさの空はとても気持ちいいとか・・・。

幸せとまではいかなくても、気持ちよく暮らそうとすることはできる。
それはやっぱりいいことだ。

【まる子母とチビ息子】


このあいだ、古墳の丘へウォーキングに行ってみたら、なんと、2年以上も前に立ち枯れて切られたケヤキの木の根元に、小さな芽が出ていた。

かわいくて、思わずそっと手を触れて、大きくなあれ、と声をかけた。
このケヤキは、思い出の木なのだ。

この古墳に捨てられていた親子の猫たちに餌をやるために毎日通っていたころ、その木は、まるで猫たちやまわりに集う人々を守るようにして枝を広げていた。

猫たちに里親がみつかり、猫たちを囲んではわいわいとはしゃいでいた人々も消えてから、その木はまるで役目を終えたように、立ち枯れてきた。

危険だからと切られて二年半もたった今、小さなかわいい芽が出ている。
まるで、希望のような芽だ。

こんなふうに、希望はどこかで、そっと見守っていてくれる気がするのです。
すると私も、なんだかまた、小さな希望に出会えた気になれるのです。

さあ、きょうも、気持ちのいいことみつけようね。

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