サボタージュする。
そう思うときは、そうすることにする。
自分の声に耳を貸して。
そういう時は、エネルギーが消耗しているときだから。
真面目が美徳なのは間違いないけれど、とかく真面目な人ほど心をいためやすいもの。
正月早々、古くからの友人から久しぶりに電話があった。
孫娘が、学校に行っても教室に入れない日々が続いていることを気にしていた。
今とは時代が違うけれど、私にも同じ経験があったから、そのことを話すと、友人は驚いていた。
「えっ、そんなことがあったなんて想像もできなかったよ」と。
私には、何が原因だったのかはわからないが、小学校の5年から6年の二年間、教室で誰とも口をきいてもらえない日々があった。
なにしろ、担任の先生が私をみんなの前で笑いものにするようなことをしていたから、生徒であるまわりの子たちからも無視されるようになった。
そんな日々が続いたから、学校に行きたいわけがない。
それでも行かないわけにはいかないから、朝、家を出ても、学校には行かず、サボっていた。
それでも幸せだったのは、田舎のことだから、どこにでも行く場所があったことだ。
山に入ったり、草むらに寝転んで空を眺めていたり、近くの牧場でひがな一日、美しい競走馬たちが駆けるのを眺めていたり。
なので、馬たちとは、すっかり仲良しになった。
さすがに冬は外というわけにはいかないので、教室でただぼうっとしていたけれど。
それでも、とりあえずは学校に行き、中学に行ってからは、このままだとだめになるという危機を感じ、自分を変えることにした。
三つの小学校が一つの中学に行くことになったのを機会に、過去の自分を知らない人たちに、新しくなった自分をアピールした。
その結果、明るくて活発な子、というイメージができあがり、友達にも先生たちにもそこそこ好かれる存在となった。
だから、中学時代の友人たちには、ずっとそのイメージのままらしい。
教室に入れずに、山に行ってはぼうっと空を眺めていた自分も、中学で、運動会のチームの応援団の団長をした自分も、どちらも自分。
そして今は、ただの猫好きで地味~なBABAちゃん。
それでいいじゃない?
毎日、餌を運んでくれれば、それでさ。
と、公園の猫たちは言いたげなんですが。
猫たちは、別に私を待っているわけではなく、ただ、餌をくれる人を待っているだけなんですが、こんなに自分を待っていてくれるものが、他にいるだろうかと勘違いをさせてくれる存在。
ほんとに「人たらし」なやつらなんです。
それで、今日はサボろうかなあと思っても、ついついダルマみたいに着こんで出かけて行くことになる。
君たちが相手ではサボるのは難しいなあと思いながら、池の水面に一瞬の芸術を描く水鳥たちを眺めながら、そこここから君たちが、鳴き声をあげて出てくるのを待つのです。