愛を知らないふじ子

ふじ子が、どういういきさつで公園にきたのか、いつからいるのか、誰も知らない。
公園に居ついた猫はどれもそうだけれど、気がつくといたという感じだ。

私が初めてみかけたときには、藤の葉が茂った場所の下で鳴いていたときだ。
お腹が空いている様子だったから、紙皿にこぼれるほどにカリカリを入れて差し出すと警戒して後ずさりした。

それで皿をさらに奥にやると、いきなりかぶりつき、カリカリは怖ろしいほどの勢いでなくなった。
よほどお腹が空いていたんだろう。

それでまた追加してやると、それもまたペロリ。
食べられるときに食べておかないと、いつまた飢えるかもしれないという恐怖を抱えている様子だった。

ふじ子のことを、餌やり仲間は、「あの藤の木の下にいるサバ柄の猫」と呼び、名前すらなかったから、私がふじ子と名前をつけた。
それから一年近くがたち、ふじ子はあちこち居場所を変えながら、アズキのいる場所まで移動した。

アズキは初め、自分のティリトリーが奪われやしないかと不安になったようで、威嚇の声をあげたり、私がふじ子を撫でているとやきもちをやくのか、御老体の身で追いかけたりしていたが、このごろは、ふじ子を見ると近づいていき、舐めてやっている。

【アズキが近づいてくると、固まってしまうふじ子。すぐにでも逃げられる体勢で】

距離を取ってたがいに相手の様子を窺いながら餌を食べる時期と比較すると、大きな変化だ。
アズキはアズキで、母性本能を発揮したくなったのか、なんとなく母親風で、最近はふじ子を舐めてやる時間も長くなってきた。二匹はどうやら、共存していけそうな感じがしてきた。

けれども、普通は片方が舐めてやると、もう一方もお返しに舐めるものだが、ふじ子はそれを知らないのか、お返しはしない。
固まってされるがままだ。

一匹で生きてきたのか、猫社会でのでのやり方も学んでいないようだ。
いまだに餌が皿に乗るのを待つことができず、すぐに頭を入れてくるので餌が散らばってしまう。

一方、アズキは、自分の前に皿がくるまで、じっと待っている。
行儀がいい。焦るふじ子に先に餌をやっても、待っていてくれる。

【いつもの、いらっしゃいませのポーズ】

ふじ子はきっと、長いこと一匹での厳しい暮しを続けてきたのだろう。
逆にアズキのほうは、いろんな人から可愛がられてきたから、愛されることの喜びを知っている。

気を許せる人となら遊ぼうとするし、ころんと寝転がって腹をみせ、ゴロゴロと喉を鳴らす。
それで、こちらも嬉しくなって、いっそう撫でてやりたくなる。
愛というものは、何倍にもなって行き交うのだ。

【咲く藤 散った藤】

愛を知らずに育ったであろうふじ子を見ていると、もっと触れてやりたくなるのだが、なかなかままならない。
そして、そばでアズキが可愛がられていても飄々として知らん顔。
やきもちという感情も知らないのかしらと思うほどにあっさりとした態度をとる。

今日一日が無事で、お腹が満たされれば、もうそれでいいのよ、あたしは。という顔をしている。
それ以上のことは望まない。

でも、そのうち、きっと打ち解けてくるはず。
その日がくるのを待っているからね、ふじ子。

もう、気を許してもいいんだよ。
甘えていいんだよ。

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