この言葉の意味は、よかったねえ、ということ。
私の故郷の言葉、青森県の南部地方の言葉なんです。
青森といえば、津軽。
だけど、青森県は津軽地方と南部地方の二つに分かれているんです。
同じ青森県でも、言葉も風習も違うし、性分も違う。
ねぶたで有名な津軽地方の気性は、いわゆる「津軽のじょっぱり」といわれるほどに意地っぱりと言われる。
一方の南部地方は言葉も口調も柔らかく控えめだと言われ、そのために損をすることも多いようだ。
そんなこともあって、どうしても、青森といえば津軽、というふうになり、南部地方のことは忘れ去られがち。
そして、この二つの地方は津軽藩と南部藩の頃から仲が悪いとされている。
飲み屋などで、南部の人と津軽の人が隣り合わせになると、必ずといっていいほどに揉めて喧嘩になるそうな。
喧嘩が強い私の兄でさえ、津軽の人と隣り合わせになったときには気をつけると言っていたほど。
たしかに野球の地方大会などで津軽と南部の学校が対戦すると、応援にえらく力が入ったものだ。
そんなことをふっと思いだしたのは、久しぶりに巨樹が茂る神聖な場所にでかけ、気分を一新したからかもしれない。
昔、子供の頃に、私には、辛いことがあると走って行ってしがみつく木があった。
幹にすがって思いきり泣くと樹木の声が聞こえる気がしたもので、その声にしだいに心が静まって、まるで慰めてでももらっているようだった。
その木は畑にたった一本で立っていて、いつも私を待っていてくれた。
ふだんは、すっかりその木のことなど忘れているというのに。
人間のように動くこともできず、風や雨に打たれ、雪にうずもれ、そして、春になるとようやく芽を出して、齢を重ねていく日々。
なのに、100年、1000年と齢を重ね、人間よりもはるかに長く生きる。
昨日行った事任(ことのまま)神宮のクスの木は、圧巻だった。
ことがままになるといういわれがある神社の境内にある、その巨大な幹に手を触れるとひんやりとして、そして、サアーっとなにかが幹から伝わってきた。
指先から掌から、幹のエネルギーのようなものが伝わってきた。
自分の中に潜む悪い気がその木に吸い取られ、かわりに浄化された気が入ってくる。
そんな気がした。
今年に入ってから、あまり気分がよくないことが続き、視野が狭くなっていたようだ。
大樹に癒され、ひさしぶりに気分がすっきりとした帰り道、道の駅に立ち寄って、地場産の野菜をたくさん買って家路についた。
ブロッコリーはすぐに茹でて冷凍し、タケノコも茹でて、夜、さっそく頂いた。
体が喜んでいるのを感じながら。
気持いがったねっす。
思わず南部弁が出て、5年物の梅酒と一緒にタケノコの和え物に舌鼓。
ちょっとえぐみが強かったけどね。
ひさしぶりに留守番のミーナはかなりご機嫌斜め。