まる子の姿がない丘の上。空気が一変した。辛いだろうな、と覚悟はしていたつもり。だが、その辛さは、予想をはるかに超えていた。それでも、このさびしさは、きっといい結果につながると信じたい。今しなければ、最悪のことになってしまうかもしれないからだ。
まる子の肥満が止まらないのだ。人懐こいまる子は、古墳の丘まで歩いてくる人たちに、かわいいかわいいと言われては餌を与えられる。キャットフードならまだしも、煮干しやカニカマなど、塩分の強いものも多い。そういうものをやると猫が喜ぶからだ。
注意書きや協力のお願いの貼り紙を何度しても剥がされる。直接みかけて注意をすると、隠れて与える。ならば、きちんとした餌やりをお願いできないかというと、それはできないという。ウォーキングのついでに猫が喜びそうなものを与え、猫が喜ぶ様子をみて自分が楽しみたいだけである。
そういう人たちは、どうせ野良なんだから、という。
なので、まる子の肥満はとどまることを知らず、ついに具合が悪くなって病院に行くことに。そうして、知り合いのお宅にしばらく預かってもらうこととなった。様子をみて調子がよければ、里親にもなってもらえそうである。古墳の丘に捨てられて、痩せ細った体で子を産んだまる子にも、ようやくのんぴりとした日々がやってくるかもしれない。
だいぶ前から、まる子はこのままだと病気になって死んでしまうかもしれないという不安に襲われるようになっていた。ある日、丘の上のどこかで、ひっそりと体を横たえているのではないだろうかと。親子一緒に飼ってくれる人はいないだろうか、と思いつつ年月が過ぎてしまった。
自分が飼えればよかったのだが、年齢を考えて踏み切れないままに毎日餌やりに通う日々だった。
まる子だけなら引き取ってもいいという人もいたのだが、チビが小さかったときには引き離すのは無理に思われた。チビとまる子の支え合って生きている絆を切ってもいいのか、という浅薄な感情に流されてしまった。
譲渡会の会場や猫カフェに行って相談をしてみたが、公園猫にはハードルが高すぎた。そうこうするうちに、まる子の肥満が進んでしまった。
決断を迫られたのは、一週間ほど前のことだ。餌をやろうとすると、後をついてくるはずのまる子が、坂道の途中で動けなくなった。それで病院へ。病院からまた、古墳の丘に戻してしまえばおんなじことになるだろう。無責任な人たちのオモチャになってしまう。それで、まる子を預かってもらうことにした。まる子のことを大好きだといってくれるその方のところで、末永く暮らせるように、まる子にもがんばってほしい。
問題は、古墳の丘に残ったチビのことである。きょうも、びしょびしょの体で出てきて、まる子の姿を探し回っていた。
今度は、チビの里親を探せればと考えているが、まる子のように人間に馴れていないチビには大変な問題だ。
たいていの人は、ここで生まれ育ったチビは、ここにいるのが一番しあわせなのだという。
たしかにそうかもしれない。けれど、雨の日の濡れそぼった姿を見ると、そんな考えは吹き飛んでしまう。人々は、天気がいい日の、のんびりとくつろぐ猫の姿しか見ていない。雨風に晒されて震える姿もまた、彼らの本当の姿なのだ。
古墳の丘で生まれ、蝶や鳥を追いかけて駆け回るチビには、家の中に押し込められて暮らすのは似合わないかもしれない。が、それもまた、人間の勝手な理屈ではないだろうか。チビだってのんびりと、常にあたりの気配に気を配らずに甘えたいときもあるはずだ。
せめて、冬の寒さがやってくる前までには里親さんをみつけてやりたい。互いに温めあい、寒さをしのぐ相手はもういないのだから。