考えすぎる人に、考えすぎるなという罪

たとえば落ち込んでいるときに、考えすぎるなとか、軽く生きろとか、そんな言葉は、一見、理に叶った優しい言葉のように聞こえる。
でもね、それは、なんの慰めにもならない。

むしろ、考えすぎるからいけないんだよ、と言われると、ああやっぱり自分がだめだからこんなことになるのだと、さらに自分を責めることになる。

【物思い?】

体力にもいろいろ差があるように、性格にも差がある。
たとえば、体つきが華奢な人に向かって、いきなりマッチョになれというのは乱暴だ。

繊細な心を持っている人は、わりと辛いめにあいやすい。
けれどもそういう人は、他の人にないものを持っていることがよくあって、他の人たちには見えないものが見える。

でも、それって、なかなか表には現れにくいもので。
だから、損ばかりしているように思えてくる。

【からきし、気の弱いふじ子】

軽く生きられない人は、なにかにつけて荷が重くなるから、ゆっくりとしか歩けないけれど、そのかわりに、早く行ける人には映らない景色がみえる。

要領が悪かったり、気弱だったりすること、考えすぎてしまう傾向があるのも、裏を返せば、丁寧だということにもなるし、他人の気持につい重点を置いてしまいがちだということになる。

でも、それを、自分のキャラなのだと自覚すれば、何かあったときにも、実は自分が考えているよりもずっと簡単な問題かもしれないと思えてきて、わりと楽になるし、コントロールもできてくるものだ。
要領よく軽くふるまえる人にはない、人間力も出てくる。

【要領が悪く、臆病。近づきたいのに近づけないモカちゃん】

大阪に住んでいたときのことだ。
繁華街のビルの前の階段に座り込んで、人前もはばからずに泣いている女性にでくわしたことがあった。
長い髪をふりみだし、足元にバッグを放り出して声をあげて泣いていた。

誰もが見て見ぬふりをして通り過ぎるなか、老齢の女性が立ち止まり、声をかけた。
「あんた、なに泣いてんのさ。そんなとこで泣いてたって誰も助けちゃくれないよ。だあれも助けちゃくれないんだよ」
そう言い残して立ち去った。

その言葉は今でも私の中に残っていて、なにか嫌なことがあるたびに思い出してしまう。
泣いてたって、だあれも助けちゃあくれないよ。

【要領がよくて、抱っこやチュールの恩恵をよく受けている夏男くん】

たしかにそうだなあと。
自分を助けてやれるのは自分だけなんだよな。

そう思って立ち上がる。
それでも、そっと共感を寄せてくれる人がいると、元気が出てくるというものです。

強くなれなくても、軽く生きられなくても、一人でもそんな人がいてくれると心の筋肉が活性化してくるのです。
見ていると、猫たちの性格もさまざま。
人間とよく似てるんです。

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