化学プラントの先輩

aerial view of an industrial plant with lights turned on during night time

川崎の京浜コンビナートには、名の知れた会社のプラントが並んでいた。
川崎駅から塩浜方面に向かうバスに乗ると、やがて延々と続く工場地帯がみえてくる。
蒸留塔と呼ばれる煙突状のものから蒸気が吹きだして、大小さまざまなパイプが絡みつき、這うように巡らされている地域だ。

そのとき私は座るとずりあがる黒のタイトスカートを気にしながら、バスの外に広がるコンビナートを眺めながら、これから受けることになっている採用試験のことを考えていた。

試験に通りさえすれば、少なくとも先の暮しは見通せる。上京してからのバイト生活とはちがう。
ケミカルプラントの研究室の補助スタッフという仕事にも興味を持った。

【川崎駅前のバスターミナル】

そして、採用が決まり、毎日、川崎駅からコンビナートに向かうバスに乗って通勤することになったのだが、仕事は、プラントから持ち込まれてくる製品の検査や新製品を研究するスタッフたちの補助。
検査や試験機器から出てくるデータを渡したり、使用した器具などを洗ったりというようなものだったから、それほど難しいものではなく、むしろ退屈なほどで、まわりの人たちとの話のほうがおもしろかった。

一人、猫好きな先輩がいた。とてもきれいな人で、けれど、冷たい印象を持たれてしまうのか、まわりの男性たちからは距離を置かれているような人。いつも一人で黙々と仕事をこなしていた。

crop laboratory technician examining interaction of chemicals in practical test modern lab
Photo on Pexels.com

ときおり私は、試薬や試験管を持つ先輩の細い指をみつめ、溜息をついていた。そんなに細くて白い指を持つ人は、私の育った田舎にはいなかったから。
けれど、その手の甲には、たまに猫の引っ掻き傷があった。

白い手に赤い走り傷。痛々しくて訊ねると、先輩は、気性の荒い猫でね、でも、それをてなづけていくのもまたおもしろいのよ、とほほえんだ。

しばらくたって、春の雪が降り、めずらしくコンビナート一帯が白くなった日のことだ。
仕事を終えてロッカールームに戻り、着替えていると、いつもは自分からはあまり話しかけてこない先輩が私の方を向いた。
「私ね、今日でこの会社をやめるのよ」という。
「えっ、なんでですか?」
「特にわけはないけどね、歳も歳だし、なんだかまわりの圧が強くて。いずらくなっちゃったのよ」

歳といっても、まだ20代後半。なのに、圧とは・・・。
今では考えられないことだが、そのころは寿退社といって、結婚を機にやめていくのが会社の掟のようになっていて、寿退社ができない女性には厳しい状況だったのだ。

ロッカールームの小さな窓に、外の雪明りが映り、そこに立つ先輩の顔はいつにもまして白っぽく、そして、沈んでいるようにみえた。


こんなときになにがいえるんだろう。
黙って先輩の顔をみつめていると、先輩は、「でも猫がね、いるからね。こういうときはちょっと楽なんだ」とポツリ。
「猫って、そんなに助けになるものなんですか?」と私。
「そうよ、あなたはまだ若いからまだわからないと思うけどね、犬とか猫を飼うような時がきたら、きっとわかると思うよ」

大きな紙袋に私物を入れて立ち去って行く先輩が、ドアの外に消えていくのをただみつめるしかなかった私には、猫とともにある今の自分など想像できるわけもない。

けれども、猫と遊ぶ時などに、先輩の手にあった赤い引っ掻き傷のことがふいによぎる。そんなときは、先輩の整った横顔をいとおしく思うのだ。

【ミーナ、私の気持、伝わってる?】

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