新宿ミラノ座跡地に歌舞伎町タワーがオープンしたという。
旧淀橋浄水場あたりに住んでいたころ、新宿駅からの帰り道、歌舞伎町へと続く道に出会うことがあった。
夜になると、歓楽街のパワーが波のように押し寄せてくる界隈。
流れ出る音や誰かの嬌声、鼻につく独特の匂い、重なり合う蛍光色の看板。
そんな魔界に足を踏み込むことも視線を向けることもできず、いつもそそくさと通り過ぎていた。
小説の同人誌仲間と、知り合いの編集者について歌舞伎町のゴールデン街に初めて行ったとき、彼は馴染みの小さなバーに案内した。
細い路地が縦横に入り組む通りには看板が重なりあうように点滅し、迷路のような道をたどり、ビルとビルの隙間を抜け、彼はぎしぎしと鳴る階段を上って、小さな店へと案内した。
カウンターに、小さな丸椅子が並んでいるだけの狭い店だった。
驚いたのは、カウンターの奥の壁に、グラスや酒の他に小説本がびっしりと並んでいたこと。
この店の馴染み客に、小説で名を成した人もいると編集者は言い、みんなは、自分たちも名をなせるかもしれないと冗談半分に笑った。
寒い季節で、コートや鞄は椅子の後ろの壁にかける。
カウンターの中では、白シャツのお兄さんがカクテルを作っていた。
つぎの瞬間、その見事な腕裁きに眼をやって驚いた。
お兄さんの右腕は、肘から先がなかったのだ。
なのに、リズミカルな動きの見事なことといったら・・・。
あっけにとられて、しばらく目が離せなかった。
どこにも、すごい人はいるもんだなあ。
壁の棚に並ぶ本で名を成す人もいれば、本棚の前で、見事な腕前を見せる人もいる。
どちらにもなれない自分にも、猫がくりだすさまざまな姿態を眺めながら、静かにコーヒーを味わえる時間はある。
それもしあわせ。それでしあわせ。