誰かの足元

通る人の足許を見てるの? 紫さんの庭のクレマチス

なんだか気になる人が隣りに坐っている時など、まともにその顔をみることはためらわわれる。
それで、視線は足元へと行く。
特に、靴。そしてちらりと覗く靴下。

男性の靴は、それほど種類が多くない。
だからいっそう、質が問われる。
磨きぬかれ、手入れの行き届いた靴を眼にするときは、そっと視線をあげていく。
そうして、横顔や仕草をちらりと見てしまう。

pair of brown leather shoes
Photo on Pexels.com

わりと有名な出版社に行った時のことだ。
そこが主催する賞の次点に入り、授賞式に行った時のこと。
文学史に名を連ねる作家たちを送り出している出版社だから、緊張はピーク。

だが、そこで私は厳しい現実を知ることになった。
受付に要件を伝え、教えられた場所に行くためにエレベーターに乗ろうとしたとき、ちょうど新人賞を取った若い女性が入ってきた。

【紫さんの庭】

すると、彼女には編集者が迎えに出ていて、案内をしていた。
新人賞と佳作の違いは、差別と言っていいほどに歴然としていたが、私は見て見ぬふりをして目的の部屋に行き、授賞式というにはあまりに地味な会議室みたいな部屋で、選者の作家や編集者たちと同席し、賞金や賞状を頂いた。

一万人くらいの応募者の中をくぐりぬけたのだ。当然、プロになれるだろうと考えていたが、あさはかだった。
私のほうは何度も応募してやっと通ったというのに、女子大生は、夏休みの暇つぶしに書いたら通っちゃったのだと言う。そのうえ、彼女は作家になるつもりはないと、言いきった。

【登るもの、沈むもの】

彼女にとっての新人賞は、ほんの気まぐれでとったものだったのだ。
なんだかアホらしくなってきて、くそっ、と心の中でつぶやきながら視線を下に移した。

隣りにすわっていた選者であった作家は、ドイツ文学に詳しい人で、よく新聞などにも載っている方だった。視線を落とした眼に入ったのは、わずかに赤味がかった渋い茶色の革靴だった。
それはみごとに磨き抜かれていて、歩き皺さえも美点になっていて、しばらくみとれてしまった。

こんな魅力に満ちた靴、あまり見たことないなあと思い、その人の暮らしぶりまで想像した。
帰る頃には雨が降りだして、その時に編集者が貸してくれた傘は返せないままに時がたった。
編集者はあとで手紙をくれ、選考になにか問題があったというようなことが書いてあったが、事態はとくに変わらなかった。

それからだいぶたって、これが最後ときめていた作品が、再びそこの文学誌に転載される予定になったときにも、どういうわけか他の小さな出版社のものに変わってしまった。前の件もあったから電話をして事情を訊ねてみたが、相変わらずいい返事はない。その不公平さに糸が切れ、最後と決めていたこともあって小説の世界とは縁を切ることにした。

【この猫、取り扱い注意!】

まちがいだらけの私の人生にしては、いい選択だったと思っている。
運も含めて、結局は力の世界。面白い物語を書ける人は、世の中にはいくらでもいるし。

けれど、負けたものにも幸せはくる。
今が楽しい。そう思うと、猫もかわいいし、まわりの人も愛おしくなる。富士山も美しい。
あの時もしも勝っていたなら、今も悶々として原稿にばかり向かっていたかもしれないなあ。

5月14日の富士

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