それぞれに輝きを放っている公園の花たち。こんにちわ、元気? とよびかけているように顔を向けている。よくみると、花にもちゃんと表情があるんです。
猫の表情もわかりやすい。ご機嫌なときは体全体で喜ぶ。しっぽをぴんとあげて歩く。ころんころんと転がって腹をみせる。でも、ちゃんと距離を保っている。それでこちらも、ちょっと距離をとって眺めることにする。それをさびしいと思うか、心地よいと思うかは、その人しだい。
まる子はぐいぐいと甘えてきたが、チビは、つかず離れず、というふうに微妙な距離をとる。それで私も、ただそばにいて撫でてやったり、なにか話しかけてみたりする。そのうちに帰る時間になり、バイバイといって別れてくるのだが、まる子のようにあとをついてくるわけでもない。
だが、チビは、相手によってはずいぶんと甘える面もあるようで、相手の様子をみては甘えたり距離をとったりしているのかな? これまでは、古墳の丘のアイドルだったまる子の陰になり、あまり目立たなかったのだが、こうしてみると、チビ本来の猫性が少しずつ明らかになってくる。
まる子が去ってから一月近く。もう、いなくなったまる子のことを気にしているそぶりはない。そしてまる子のほうは、あいかわらずのキュートぶり。まる子も、チビのことは頭の中にはない様子だという。母親ではない、まる子本来の姿に戻った日常が続いているようだ。
私と三毛子との距離も微妙である。三毛子も元野良だったせいか、それほど甘えてはこない。そのかわり、とにかく動き回る。好きなボール遊びで遊んでやるとそこらじゅう猛スピードで走り回り、疲れることを知らない。
こちらは何度もしゃがんだり立ったりをくりかえし、動き回るのでバテる。バテても、三毛子は容赦しない。もっともっとと走り回り、私と夫は交代で相手をするが、三毛子のバイタリティにはかなわず、やはり猫育ても若さが必要なのだと思い知る毎日だ。
ホースを出すと、あいかわらず飛んでくる。 飛び回るチョウを見ている。
人間の関係もよく、つかず離れずがよいといわれている。距離が近すぎるとくたびれるし、離れすぎるとさびしい。なかなか難しい。猫どうしの関係はどうなんだろうか。三毛子は隣りの猫のモモが庭に入ってくると、一緒に遊びたいのかすぐに出たがる。けれども出してやっても、人間みたいにずっと遊ぶわけでもない。挨拶をしたあとは、じきにそれぞれの好きな方へと行く。
あくまでも個人主義なのが猫。そう思っていたら、最近、ちょっと驚いたことがあった。このごろ、よそ者猫がのして歩いている。その猫と、昔の三毛子の仲間だったグレ子が縄張り争いをしていたが、体の小さなグレ子は形勢不利。するとグレ子といつも一緒にいるグレ男が参戦。三つ巴の戦いとなった。
それを物陰からじっと見ていたのが三毛子。いったいどうなるんだろうとじっと身を潜めている。そのうち、迫力のあるグレ男によそ者猫がおじけづいて退散し、一件落着となったのだが、あらためてグレ子とグレ男の絆を知らされた。
そういえば昔猫のプリンとマロンもそうだった。プリンがよそのオス猫にやられそうになっていると、すかさずマロンが飛んで行き、死闘をくりひろげていたものだ。あれは、人間どうしよりも強い絆だった気がする。
左がオス猫マロン 黒猫はメスのプリン
プリンが先に死んだ後、マロンはプリンがよくいた場所を探し回り、プリンが帰ってくるはずの道をみつめていたものだ。それが数ヶ月も続いた。夫婦でうっかりプリンの名前を出すと、一年たっても、マロンは反射的に猫ドアーをみつめた。それはさらに自分たちの辛さにつながったものだ。
まる子がいなくなった古墳の丘で、同じようなことがチビにも起こるのではないかと不安だったが、まる子もチビも、思っていたよりもあっさりとしている。ひきずらない彼らの賢さにひきつけられる。