愛はどこに行ったの?

【友人の庭の石が猫の形。なので写真上で少しいたずらをしてみた。ミーナみたいになった。】

それ、このごろ感じることなんです。
今、よく言われている、自分を大切に、という言葉を、自分さえよければいいというふうに解釈している人もいるようで、なんだかみょうな具合になっているような気がするのです。

自分を大切にするのはとてもいいことだと思うし、自分もそうありたいと思うのですが・・・。
けれど、それは自分勝手になっていいというのとは違うと思うのです。

自分の気分を中心にする考えがどんどん広がって行けば、世の中が殺伐としてくるのは当然です。
クレーマーやハラスメントがふえるのはその現象かと考えます。

【嬉しいと、ミーナはコロコロとよく転がる】

嫌なことはしなくてもいいし、嫌な人とは無理につきあうこともない、嫌なことにははっきりと言う。
でもね、そこには最低限の礼儀とか、相手の尊厳までおかさないこととか、そういうことをわきまえていないと、単に自分勝手な人になってしまう。

自分を大切にするということは、嫌いな相手を排除することではないし、立ち直れないほどの暴言を吐くことでもない。

「そこに愛はあるか」というコマーシャルがあります。
大地真央さんという美人女優さんが面白いことをやってるから、よけいに訴える力がある。

人にはいろいろ考えがあるのだから、自分を大切にする一方で、相手の考えも心に一度は入れてみてから結論を出しても遅くはないでしょう。

人と人との繋がりをおろそかにしていると、巡り巡ってそれは自分にはねかえってくるものだと言われます。
けれども、悪い奴ほどよく眠り、私腹を肥やし、自分の得には敏感だけれど、他人の気持を推し量ることには鈍感。

どうも神様はいたずら好きで、あまり公平ではないようですから、いい人がいい人生をしめくくるとはいかないようです。
私などは思いきって悪い奴にもなれず、かといって、きっぱりと心を洗い流していい人にもなれず、相変わらず失敗を重ねているけれど、小さなことにも喜びを感じるようになってきまして、これはまあ、おばあになったということでしょうか。

今日だって、しばらくぶりに古墳の丘に上ったら、昔、チビやまる子に餌をやるために通っていた頃の顔なじみさんたちに会って、まるで同窓会のように賑やかに笑ったり、喋ったり。

そんなことがたまにあるだけで、私はもう十分にうれしくて、彼らのことを好きだなあと思えるし、お互いにいい言葉のキャッチボールをしているようで気分がいいのです。

だって、彼らは遠くから私をみつけるとにこにこしながら近づいてきて、たがいにたわいもない話をするのですが、富士山が見えるとか見えないとか、傘雲がパンケーキに見えるとか、そんなことで楽しくなって、るんるんして、坂道を下ってくるのです。

【何層にも重なった傘雲。Xでのフォロワーさんによると、ここにラピュタの城が隠れていそうだということです】

誰かの気持に共感することが少なくなってきて、そのくせ、自分の気持には共感や認証をほしがる現象に脅かされているこの社会。
自分勝手を通すのと、自分を大切にするということには大きな違いがあると思うのです。

ラピュタというのは、1986年に公開された映画、天空の城 ラピュタ のことです。
宮崎駿の映画で、「ある日 少女が空から降ってきた」というキャッチコピーがすてきです。
テーマ音楽は、聴いていると、私は涙が出てきそうになります。

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