つぎは、どこに向かって行きましょう。

2018年6月から始めたブログの前編は、「猫と古墳と富士山と」というタイトルでした。
古墳の丘に捨てられた親子猫のけなげな姿を見たのが、その二年前の2016年の春ごろ。

母猫も、まだ生まれたばかりの子猫もやせ細っていて、それでも無邪気にじゃれあっていたのですが、そばには人間が食べた残飯が散らばっていて、とても見て見ぬふりをすることができなかった。

だからといって、私には、飼ってやることができない事情があった。
それで、猫に餌をやるために、毎日、長くてきつい坂道を上り下りすることになった。

雨風が激しい日には、今日はやめようと思いながらも、餌を待っている猫たちの姿が浮かんできて、カッパを着て、やっぱりでかけていくことになった。

晴れていれば遠くに富士が見える古墳の丘に通い続けた5年間は、とにかく猫たちを救うことに夢中だったけれど、今にして思えば、それはまるで宝物のような年月だったのです。

先の希望が見いだせなかった時期、私はあまり動かなくなった夫を誘い、毎日、猫たちのために古墳の丘まで通っていたのだが、それは猫たちのためだけではなく、じつは自分たちのためであったと感じるようになりました。

股関節に痛みがあっていっときは歩けなくなっていた私が坂道を上り降りできるようになり、病気がちだった夫も健康になっていき、猫たちに悪さを続けるグループには二人で協力して戦うようになったのでした。

そしていつしか、夕方の数時間の習慣が暮らしの基盤になり、この町に知る人もあまりいない状況を変えてくれました。
なんと、餌を食べたあとにくつろぐ猫たちがすっかり人気者になり、猫たちを囲んで、人々が立ち寄って話をしていくようになり、まるで、丘の上のサロンのようになっていったのです。

たがいに名も知らないゆきずりの間柄であるゆえに、かえって話せることもあるのでしょう。
いろんな人が猫のそばにいる私たちのところに寄ってきて、いろんな話をしていくのでした。

「これでコーヒーでも出りゃあ、猫カフェだなあ」と笑う人もいて・・・。
そんな楽しい場になって、私たちもまた暗い淵のそばにいる気分から少しずつ明るいほうをみるようになりました。

それでも、やはり、猫たちにとって、古墳の丘は冬は冷たい風が吹き抜け、大きな木々を唸らせ、竹林では木々がこすれあって悲鳴のような音を立てます。

そんな場所に猫たちをいつまでも置いておくことはできないし、自分たちに何かあった時にはどうなることかと不安になる。
母親のまる子は、私たちが帰ろうとすると哀しげに鳴きながらあとを追ってくるし、チビのほうもまる子のあとをついて追ってくる。

あたりは林立する杉林で、まごまごしているうちに暗くなり、曲がりくねった坂道でぼうっと白く浮かぶまる子の姿。
まる子はいくら追いかけても連れて行ってはくれないのだと諦めて立ち止まり、じっとこちらをみつめている。

戻ろうとする私を夫は制止し、私はチビとまる子の視線を感じながら、振り返らず、足早にいつも坂道を下った。

それで、信用できそうな人をみては里親になってもらえないだろうかと声をかけるようになったけれど、支えあって生きている二匹を一緒にというのが無理だったのか、なかなかみつからなかった。

一匹ずつでもいいと心を決めて、ようやくいい人たちにそれぞれ引き取られていった。

古墳の丘からチビとまる子の姿が消えると、風がただ吹き抜けていくさびしい場所となり、立ち寄ってくれた人々の姿も消えた。

そして私は、坂道の下の池のまわりに暮らす地域猫たちの見守りもするようになって、その活動を支える「花猫の会」の立ち上げにも関わることとなり、ちゃんとした組織ができあがった。

けれど、ふじ子が空に帰り、アズキも保護されたことで、今はその活動からも遠ざかり、少しずつ、今度は自分のことに目を向けようとしているところ。

【アズキとふじこ】

嵐の日、誰もいない古墳への坂道を餌やりのために上るときは、これは一つの修行のようだと思ったものです。
それまでの自分のだらしなさやふがいなさ、誰かへの負い目などを浄化させているのかもしれないと。

そうして猫の会の立ち上げに携わったことで、人間に対する修行もさんざんして、それも終わった今は、そろそろ修行は終わりにして、今度は楽しいことを拾いあげて暮らしていこうと考えるようになりました。

さいわい、近くに友人もできて、たまにはお喋りもし、一緒にどこかへ出かけることもある。

これまでの私は一人で動くことが好きで、一人で本を読んだり、古びた住まいを少しでも暮らしやすくと片づけたりと、あまり誰かと一緒にでかけることもなく過ごしてきたように感じます。
そのせいか、気をつかわずに話せる誰かと少しの時間を共有することが、とても新鮮に感じられるのです。

さらには、このごろ、生バンドつきで歌う会にも参加するようになり、今頃になって集団とか仲間とか、そういうもののエネルギーに触れることができるのも楽しくて。

どの人もかわいいなあと感じるようになってきたのは、猫を通じて、さんざん修行をしてきたせいかしら?
75歳という年齢は、これまでのことと、これからのことを考える節目なんだろうなと感じます。

なんとなくやり過ごしてきたことや、目をそむけてきたことなどが、いやおうなく目の前につきつけられてくるようです。
もうすっかり遅すぎたかもしれないけれど、やはり、ちゃんと向きあおうかなあと考えて、キリリと心の結び目を縛りなおしているところ。

残りの人生ではなくて、これからの人生というふうに考えてます。
いくつか、やりきった今、このブログにも、ひとつの区切りをつけ、閉じることにしました。

これまで、長いこと私のブログにお付き合いくださった皆様に、感謝とお礼を申し上げます。
本当に、本当に、ありがとうございました。

※新しい投稿はしませんが、これまでの記事はしばらくそのままにしておきますので、気が向きましたら、またご覧になってくださるとうれしいです。

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