松任谷由美の唄に、「優しさに包まれたなら」という歌がある。好きな曲の一つ。へこんだときに聞きたくなる曲。じわっと涙が浮かんでくる。あと、この季節に聞きたくなる曲といえば、稲垣純一の「クリスマスキャロルのころには」だ。君を毛布代わりにはできないから・・・というフレーズ、聞くたびに胸がキュッとなる。
なにが嬉しいって、誰かにちょっした気遣いや優しさを貰うときがやっぱり一番だ。
うまくいかないことがあって心が冷えてしまったときには、「優しさに包まれたなら~」と口ずさんでみる。そして、そんなときもあるさ、と言う。きっと大丈夫だよと。これまでだっていろんなことを乗り越えてきたんだから。
でも、人生はうまくできているもので、そんなことのあった翌日、近所の方が、新鮮な大根を持ってきてくれた。畑でとれたばかりの大根のおすそ分けだという。スーパーで売っているような、葉っぱが萎びている大根ではない。見事にしゃきっと張っているのだ。おおっ、と思わず声が出た。
大根を持ってきてくださった方いわく、「葉っぱは、じゃこと一緒に炒めて食べると、これがまたうまいんだよ」。なので、さっそくやってみた。じゃこだけでなく、油揚げや竹輪を入れてみると、これまたよくて、立派な昼の一品が。作物の生命力に感謝。売っているものとは全く違うのだ、シャキシャキ感が。
大根もおいしかったが、なにより嬉しいのは、そうやって気遣いをしてくれるその方のお気持ちだ。私のように、近くに親戚も古くからの友人もいない、心もとない身には心の御馳走だ。
そして今日は、ひさしぶりに、チビまる子のもとへ通っていた時間に古墳の丘に行ってみた。ここのところ、日の射す日中にばかり行っていたので、馴染みの人たちにあまり会わなくなっていたから、少しさびしくなって。
すると、いつも会う犬連れの二人が笑顔で近づいてきて、「しばらく会えなかったからさびしいね、と二人で言ってたとこなのよう」と声をかけてくれた。会うと、必ず撫でてやる犬たちもなんだかうれしそうだった。
古墳への坂道で会った年配の男性。豪快な笑顔、いつも大きな声で話しかけてくる。山が好きでよく山に登っていたという。それだけに体にはしっかり筋肉がついていて、歩くのも速い。その方はいつも笑っていて、まるで、ぼくはとっても幸せだようという貼り紙を顔につけているような感じに見受けられた。
けれど、坂道の途中で、「ここにくれば誰かに会えるかなあと思ってきたんだ」と言う。「じつはぼくはこの年までずっと独り身でね、家にいると誰とも喋らんもんだから」と続ける。
へえっ、この方、独身だったんだ、とあらためて思い、そっと横顔をみると、やっぱりいつものようにダイナミックに笑い、大声で喋る。今日は私も誰かと喋りたくなり、夕方の顔馴染みの人たちに会いたくなってきたわけで、けっこうみんなもおんなじことを考えてるんだなあと、とあらためて思ったのだ。
ちょっとした会話や笑顔の交換だけでも、ほんのりとした優しさに包まれる。そう思いながら坂道を下って行くと、いつも一人でやってくる同年配の女性にも会った。
「しばらくぶりできたけど会えてよかった。猫がいなくなったからもう会えないかと思ってたけど」と言ってくださる。
今日は富士は見えなかったが、山々は夕日に赤く染まっていた。やっぱりいつもの時間にくると、なじんだ笑顔に会える。これもまた、心の御馳走だ。あしたは、きっとだいじょうぶ!