この竹林の空、たぶん、まるこも見上げていたんだろうな。
送られてきた写真をみると、まる子、すっかりオウチの子になっている模様だ。
飾り棚の上にのぼったまる子は、まわりの飾り物の一部であるかのようにしっくりくる。外に出たがるのではないかという懸念はほとんどなさそう。愛情を注いでもらっているので満ち足りているのかもしれない。5年近くも山の中で暮らしていたにしては、ずいぶんと人間の暮らしになじむのが早い。
丘の上の暮らしも大変なことばかりではなかっただろうし、かわいがってくれたり、通るたびに気にしてくれたりする人たちもいた。けれど、意地悪をする人が近づいてくれば草むらに隠れ、心ない人が連れてくる犬に迫られては太った体でよたよたと走り、しっぽをつかもうとする子供に追いかけられては逃げまどい、そんなことをどれだけ重ねてきた年月だったろうか。
野良猫だが飼われていたらしく、人慣れしていて、初めの頃には誰彼となく近づいていた。そのうちに、少しずつ用心するようになったが、餌をくれそうな人にはすり寄っていく。飢餓のトラウマのせいとはいえ、それが災いのもととなった。
まる子はたぶん、子供ができたことで捨てられたと思うのだが、夜には真っ暗で明かりも届かないような山に捨てられ、弱った体で3匹の子を産んだのだ。一匹は弱っていて死に、一匹はカラスにやられて死に、残ったチビとともにようやく生きてきたのだ。そんなふうにして支えあってきた親子を離すのは酷に思え、このうえもなく辛かったが、このままにしておいては、肥満が進んだまる子の命が危うくなりそうで、気が気でならなかった。
餌は十分にやっているから、与えないでください、という貼り紙を何度しても剥がした人たち。最後は簡単に剥がされないように針金で止めたにもかかわらず、わさわざ工具を持ってきて剥がした人たち。石の上に、山盛りに餌を置いて行く人たち。そんな人たちは、まる子がいなくなって空虚な風景になったことをどう思っているのだろう。親子を引き離すなんて、と簡単にいう人たちは、そういう人たちだ。
チビは俊敏で、まる子とちがって逃げ足が速く、まる子とは危険度が格段に違う。用心深いから、みさかいなく近づいていくこともなく、危険を察知するとすぐに姿を消す。そういう意味では、まる子とはちがう。それに、もうじき5歳だ。人間でいえば立派な大人で、むしろ、まる子を助けてやるような年齢なのだ。そろそろ、まる子にもゆったりと暮らす時間を与えてやってもいいのではないのだろうか。
餌やりを始めたころ、それはもう5年近くも前になるが、まる子はよく坂道を降りる私のあとを追ってきた。そのたびに、リュックの中にまる子を入れて帰りたいと思ったものだった。けれど、まだ幼いチビがそばにいて、今ではすりよってくるようになったが、そのころのチビはひどく臆病で触れることすらできず、捕まえるのは無理。チビだけを山の中に残しておくことはできなかった。
まる子はそのうちに諦めたのか、あとを追うことはなくなったが、雨の日や寒い日、人間だって人恋しくなるような夕方には、思いだしたようにまた追ってきた。そのたびに、上まで送り返し、そしてまた追ってくるという繰り返し。そのうちにまる子は疲れてうずくまる。切ない声で鳴くのを背中に感じながら、心をキュッと引き結んで帰ったものだ。
まる子とチビを一緒に、という願いは叶わなかった。残されたチビは少しずつ落ち着いてはきたが、やはり、まる子という盾を失って、不安そうな様子。けれど、追ってくることはない。ありがたい。