気ちがいじみた暑さが続いていると思っていたら、ふっと、セミの声がほとんどしていないことに気づいた。
そうと気づかないうちに、季節はちゃんと進んでいるんだなあと、しみじみ。
今年は、大好きなトウモロコシをたくさん食べた。
ちょっと時間はかかるが、蒸し器で蒸すと甘みが増す。
電子レンジでやるよりも、確実にうまみが増す。
暑さがひどいので、庭の手入れもする気になれない。
それで、雑草が伸びているのを横眼でみながら、ずっと昔に読んだ本をまた読みなおしてみる。
「ライ麦畑でつかまえて」も、その一つ。
主人公は、まわりの人間たちをさんざん非難したあとに、彼らが去っていくと今度は孤独になり、たまらなくなって誰かに電話をしたくなる
わかるなあ、それ。
若いときの自分と似ている。
さすがに今は、そうではないが、でも、とてもわかる。
主人公は、ライ麦畑で遊ぶ子供たちが崖から落ちそうになった時に掴まえてやるキャッチャーになりたいと思っている。
私がイメージするのは、トウモロコシ畑だ。
トウモロコシはとても背が高くなる。
子供が入ってしまったら、隠れてしまってどこにいるのかわからないし、子供自身も、まるで迷路に入り込んだような気持になる。
ほんの子供だったころのある日、一人でトウモロコシ畑に入ったときのことだ。
たぶん、どこかに隠れてしまいたい気分だったのだと思う。
畝の間にしゃがんで、空を見上げた。
眼の前で揺れる葉先にトンボがとまった。
風がやむと、編み目状に筋が入ったトンボの羽越しに、空がみえた。
そのとき、ふっと怖くなって思わず立ち上がった。
明日もあさっても、この場所に同じ時間にきて同じようにしゃがんで、薄い羽が風に揺れるトンボが同じところに止まっていても、もうそれは今日の空とは違うということだ。
今日のこの時は、決して二度とはないということ。
あたりまえのことだが、小学生の私にとって、それはとても怖いことに思えた。
どんなに楽しい時間も、どんなに好きなものも、もう明日になればなくなってしまうかもしれないということが。
あの時、そのことに気づいて、急に怖くなって走り出した。
トウモロコシ畑はどこまでも続いているようにみえ、誰か、私を捕まえておいて、と叫びたくなった。
この夏はトウモロコシをたくさん食べたせいで、何度も、その時のことを思いだした。
今のあたしは崖から落ちちゃったのかもな、と思いつつ。