猫と月とジュピター

月の右側にジュピター

昨夜、11月29日、満月を一日過ぎた月と、月に近づいたジュピターが見えた。
まあるく光る月だけでも見応えがあるのに、近くにはしっかりとジュピターも見えた。

こんなふうに、無限に広がる天体の中、月に近づいて、なんだか様子を窺っているような星、ジュピターをしっかりと見たのは、初めてのような気がした。

70歳を超えても、長く生きたなあという実感はない。
だって、こんなふうに、今宵の月とジュピターを見るような、ふっと新しい瞬間に出会うから。

【コーヒーショップの前にいたホワイトシェパード。初めて見た気がする】

それは、たぶん、これからも続くのだと思う。
だから、こんな自分にもまだ未来はあるのだと。

自分の心持ちも、経験を重ねるたびに変わっていく。
人を見る眼も変化するし、同じことをしても、あれっ、という変化を感じる。

思うのは、人間ってほんとに千差万別だなあということ。
毎日通っている公園の猫たちの環境が激変し、変革の波が押し寄せているのを見ていて、いっそう感じるのだ。

【お散歩ちゅうのデビちゃん。保護したときには、デビルみたいだったからという】

もうずっと長いこと餌やりをしていた人がやめることになり、その周辺が騒がしい。
なにかと問題のあった人ではあったが、とにもかくにも、長いこと猫たちのために公園に通い、餌をやってくださったのは、やはりすごいことだ。

猫たちには神様みたいな存在だったろう。
その人が公園にこれなくなって、餌やりの問題が起きた。

夕方は、自分を含めた何人かの人がいるが、朝はあまりいないようで、それが問題。
募集をしたり、公園の管理をする人たちにしばらくお願いしたりと、市の職員も忙しい。

それでこの際、新しく餌やりの人たちを把握してグループ化しようということになり、自分が声をかけることになった。
ところが、それが思ったほどうまくはいかない。

勝手に、自由にやりたい人が多いのだ。
グループに入るのは面倒だし、登録をすると個人情報を知られるからいやだという人もいる。

要するに、適当に行きたい時に行き、かわいがりたいときに餌をやるということだ。
だから、グループ化することは難しい。

けれども、本当に猫たちの健康や食事のことを考えれば、そうはいかないのだが、野良たちだからしかたないでしょ、という一言で片づけられる。

病気になるのも、事故に遭うのも、池に投げ入れられるのも、野良だからしかたないというのか・・・。
いなくなったら、別の猫をかわいがるのか。
野良はいくらでもいるのだから。

あずきに餌をやりながら、そんなことを考えていた。
野良だからこそ協力しあって、せめて少しでもいい環境においてやりたいと思うことは、それほど贅沢なことだろうか。

眼の前のアズキは、そんなことなど知らぬげに、餌を食べると、さっさと離れていく。
うん、もう、おまえまで冷たいやつだな。

そんなことを思いながら、暮れた空の月とジュピターを眺めていた。

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