指の先に、ちりちりとなにかが寄ってきて、そして、まるでチャージされるようにして、私の中へと吸い込まれてくるような気がした。
この感覚はなに?
昔、好きだった作家の本をひさしぶりに読んでいた時、それは起こった。
驚いて眼をとじ、エネルギーがチャージされていく感覚に浸っていた。
気持悪さはなく、むしろ、快感だった。
眼には見えないほどに小さな無数の粒子が、微弱な電流を放ちながら、ぼんやりしていた私を目覚めさせていく感覚だった。
感情をあらわにするのは大人げないと、そんなふうに自分に言い聞かせているうちに、感情の幹さえも見失ってしまっていたようだ。
子供のように大きな声で泣けなくなったのは、いつからだろうか。
憧れや、沸き立つような喜びや感動、そんな感情の玉手箱を心の奥にしまいこんでいたらしい。
あまり考えずに、日常のルーティンに従って動くほうが楽だし、時間の効率もいい。
けれどもたまには、あえてルーティンを破って、心になにかをチャージしてくれるような出来事を見つけるてみると、見慣れているはずのものも新鮮に見えてくる。
たとえば、雨上がりの朝の風景だ。
雨滴の真珠をまとった草花の美しさは、感動ものだ。
蜘蛛の糸の上に並んだ雨の粒は、差し込む朝日を受けて輝き、けっこうきれいなものだ。
ちょっと散歩に出てみれば、名前も知らない道端の花の美しさに出会うし、散歩する犬たちの個性に、顔がほころぶ。
遠くにでかけることも少なくなり、身のまわりを見回すことにしてから、日々のそうした気づきにワクワクするようになった。
すると、そこら中が小さな宇宙のように思えてきて、俄然、世界が広がってきて、面白くなってくるのです。
よくみると、小さなに虫もちょろちょろ歩き回るトカゲにも、猫のポーズでノビをする猫にも、気づけばそこらじゅうに小さな神秘が広がっていて、そうして、エネルギーが発信されているのです。
なにか強烈なものを私にチャージしてくれたその本は、未完のままで終わっていた。
未完の理由はわからない。
完成を見ずに亡くなったのか、それとも書けなくなったのか・・・。
本を閉じたとき、人生は未完の小説のようなものだなあという思いがこみあげてきた。
おもしろいところで突然終わるかもしれないし、書けない苦しみの中で途切れてしまうかもしれない。
後ろを見ても、もうどうにもならないことばかり。
だから、せめて、重たいものから順に降ろしていきましょう。
少しでも軽いフットワークで前に進むために。
そしてときどき、自分のまわりの植物や生き物、あるいは誰かから、力をチャージしてもらいましょう。
お互いさまって、感じで。
今日もまた無事に終わったよってね。