それをしてはいけない。

このごろ、朝早くに眼がさめる。
しばらくベッドでくつろいでからカーテンを開け、窓を開け放って朝日と風をとりこむ。

そしてベランダに出て、体いっぱいに新鮮な空気と朝日を浴びる。
これで今日も、いいスタートとなる。

それから下に降りて、雨戸をあけ放つ。
飛びついてくるミーナを撫でてやり、庭の花々を見て、おはよう、と声をかける。

咲ききった花は摘んで土に帰してやり、新しいつぼみのための栄養とする。
一握りの土の中には数十億個の生きた微生物があって、それらはいろんなものに栄養を与えるのだという。
だから、土をいじっているだけでも、そのエネルギーが手から体へと取り込まれていく。

私は、誰かになにかの養分を届けてやれただろうか。
これからも、届けてやれるだろうか。
などと、考えながら土いじりをしていると、心が落ち着いてくる。

そして、受け取ることを当然のように考えていませんか?
と自問自答している。

なにかを受け取ったら、ほんの少しでいいのだから、今度は贈ることにすれば、世の中はいい具合に回っていくはずだ。
物にかぎらず、言葉一つでも、あるいは温かな心遣いでいいのだから、贈るということを信条にすれば自分も楽しい。

誰かに、なにか大切なものを奪われたという気持になったときには、それが、労力であっても、ものであっても、たとえ、自分の尊厳であっても、私があなたに贈ってあげたものだから、きっといつか私を粗末にしたことに気づくでしょうと考えることにしている。

それは今すぐではなくても、あなたの10年さきか、死ぬ間際かもしれない。

気づくと、それは、じわじわとあなたの中で広がっていき、あなたはきっと、不思議に思うでしょう。
なんだ、これは? と。

そして、思い当たるはず。
もしかすると、これは、いつかの記憶だと。
さらには、その記憶に浸食されてしまうかもしれない。

だから、咲いている花を頭から踏みつけるような、その人の尊厳に触れるような仕打ちはしてはいけないと思うのです。
私が私らしく、あなたがあなたらしくあるためにも。

先日、私は、そんなことに出会ってしまいました。
ほとんどは誤解からくる、いわれのない理由をいくつも並べられて、うんと年下の相手から厳しく叱責されました。

ろくに弁明もできないまま、すごすごと帰る道々、でも、ふと感じたのです。
きっと、あの人にだって、今日私が贈った私の尊厳に気づく日があるかもしれないと。

道端には、小さなピンクのかわいい花が咲いていました。

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