adoという歌手を知らない人でも、「うっせえわ」という衝撃的な言葉を並べる歌は知ってるんじゃないかな。
私もそうで、何気なしに流れてくる歌として知っている程度だった。
けれども、けさ、テレビのインタビューに答えている彼女の肉声を聞いて、その話や声に惹かれた。
基本的に彼女はメディアに顔は出さないそうで、けさのインタビューでも声だけだった。
けれども、20歳とは思えないような落ち着いた声で話す内容は、やはりけっこう鮮烈。
「歌は、私にとって心臓だ」という。
というわけで、自分にとっても、言葉は、ハートそのものだなあという思いにさせられたのでした。
若くて人気沸騰の彼女と、名もなき、平凡に年を重ねた自分を比べるなんて畏れ多いのだが、それでも、どこか共鳴する部分があって、ふむふむ・・・という感じに。
書くことが好きだから、私は言葉に敏感で、敏感過ぎるといってもいいほどだった。
だから、相手の悪気のない言葉にも、ときおり心が波立ってしまうこともある。
なので、つきあいにくいのよね、とよく言われたものだ。
それでも年を重ね、さまざまな土地に住んでいろいろな経験をするうちに、しらずしらず、言葉に敏感過ぎる性格が鍛えられて、今では、たいていのことは笑い流せるようになった。
鈍感になったということかもしれないが、つくづく、人間はむしろ鈍感なほうが生きやすいし、楽しいなあと思うのです。
だいたい、誰もそれほど他人のことなど気にしちゃあいないのだし。
相手の言葉にいちいち心を揺らしていたら、ハートはたちまち壊れてしまう。
それ以上に、相手の真意を取り違えてしまう。
だから、自分の中に取り込む言葉は、自分流のザルのようなもので濾してからにしないとね。
言葉って、輝いて届くときもあるし、逆に、悪魔がささやくように苦しめられることもある。
だから、言葉はハートそのものだなあと思うのだ。
でも、悪魔のささやきのように苦しめられる言葉であっても、いつか、ふっと気づくと解き放たれている。
それって、ハートは不滅だから。自浄作用があるからなんだろうね。
許せない、といきりたった言葉でも、いつか色褪せ、力を失っていく。
そして、その自浄作用を手伝ってくれるのが、私にとっては猫というわけです。