そう思う相手はそんなにいるものではない。それで、たとえば、水槽の中で泳ぐ熱帯魚や無心に遊ぶ動物などを眺める。あるいは、心地よい風が吹き抜ける丘に登ったり、人によっては雑踏の中を歩き回ったり、どこかの店に入ってぼうっと外をみていたり、そんなことで時間をやりすごすことになる。
私は、ふらりと街に出ては、通りすがりの人々の話し声や笑い声、通りの店の呼び声をBGMにしながら、よくうろうろしていた。それにも飽きてくると、どこかの喫茶店に入って窓から通りをしばらく眺めていた。ある日、古本屋が並ぶ町の喫茶店に入った時、ふっと横をみると、壁のレンガに落書き。その言葉がズキンと刺さった。
神様、どうか私に気づいてください。
そう書いてあった。どきりとした。そのときの自分の心境そのままだったから。この落書きを書いた人はどんな人なんだろう。それを消さずにいる店の姿勢にもちょっと感心して、それからもよく、その店に立ち寄った。
結局、神様は私に気づいてくれただろうか。そう思えた瞬間もあったが、それはすぐにどこかへ追いやられ、私に気づいてくれるのはいつも猫たちだった。なにもしないのに、向こうから寄ってくる。声をかけてくる。でも、そのころは猫を飼う気にはなれなかった。
そんな時代が終わると、今度は、土と暮らすということにめざめた。農家に生まれていながら、家の手伝いなどほとんどしたことがないまま育ったのに、田舎に移住したのを機に、土の持つエネルギーに惹かれた。あけてもくれても庭いじりをしていたある日、大きな体をした男がふらりと庭に立ち寄った。
「これ、食ってみれや」
大きな男の大きな手が掴んでいたのは、卵のパック。その男があまりに大きいので、卵のパックがとても小さくみえた。その人は、この卵は庭で平飼いをしている鶏が生んだものだから、スーパーで売っているものとは全然ちがうのだといった。名前も名乗らずにその人が置いていった卵は、たしかに黄身がぷるんと盛り上がっていておいしかった。
それから、週に一度、その人は卵の配達に立ち寄り、デッキでコーヒーを飲んで行くようになった。体重も相当なものだったようで、木製の椅子は彼が腰をおろすたびにぎしぎしと音を立てた。そのころには、道端に捨てられていた子猫たちも我が家の一員になっていて、猫たちにとってはデッキが極上の場所だったのに、彼がやってくるとその大きさに怖れおののき、どこかへ走り去った。
そしてある日、その人はコーヒーを飲んだあと、庭の土を掴んで言った。この土の中にはさ、何億という微生物がいてさ、そいつらがいろんな働きをしてくれるんだ。なのに、人間はバンバンと農薬を撒き散らして、みんなだめにしてしまうんだよなあ。あとで聞いたが、彼は環境に関する本を何冊か出版していた。
なんでも彼は大学生のとき、学生運動をしていて警察に眼をつけられて、留置されたこともあったのだという。私が神田の古本街の話をすると、懐かしそうに眼を細めていた。
そんな影響もあってか、今でも土をいじるのが好きだ。そして、時間があるときには、海まででかけて行ってぼんやりと眺めている。でかけるのが面倒なときには、小さな庭に出て草をむしったり、木の手入れをしたり。そして、一握りの土の中にも何億という微生物が生きているんだなあと、いつかの大男が言っていたことを考える。すると指の先に、土だの植物だののエネルギーが伝わってくるような気がする。
さらにいえば、そばに猫がいてくれれば、なおいい。庭にいると、外に出ていた三毛子が散歩から帰ってきて、いつのまにかそばにきている。そうして、なんだかんだとあちこちでいたずらをする。それをみていると、ふっと、よけいな力がぬけていく。
いろんな猫が、レンガの通路を歩く 三毛子は、ちょっとスケバン的
学生時代は、よく学校をさぼって一人で海を見に行っていたほどだから、集団で行動するのは嫌い。でも、ものさびしいときには、やっぱり誰かといたいし喋りたくもなる。だけどそんなに都合のいい人がいるわけもなく、そんなときにはせいぜい猫の背中でも撫でて、きみがいてくれてよかったなあ、などとつぶやいている。私に気づいてくれたのは神様ではなく、猫だったのかしら。
ぼく、このごろ、人間のことが好きになってきたみたい。
人間もぼくのことが好きなんだってわかってきたから。
もう母さんに頼れなくなったし~。(^_-)-☆