映像、本、誰かの話、音楽、ツイッターやブログ・・・など、眼や耳から入るものなど、ぴたっと心の鍵穴に嵌まるときがある。
すると、風や波が心のなかに湧き上がり、そしてふっと時間が止まる。街角で聞く昔の歌などは、とくにそうで、つい立ち止まって耳を澄ませてしまう。
そういう気持を表現してくれていたのが、中島みゆきの「りばいばる」。
一瞬にしてその時にさかのぼり、その歌を聴いていたころの自分が心の中に映し出される。
一つ一つのシーンが浮かび上がる。
駅に向かって時間を気にしながら、スカートの裾を押さえては懸命に自転車を漕いでいた自分。満員の電車に滑り込み、新橋で降りて職場へ向かう朝、人波に揉まれながら横断歩道を渡っている時、救急車の音に立ち止まる。
みんなが出勤途中のこんな朝にも救急車で運ばれて行く人がいることに気づいて、ビルとビルのあいだの空をみあげた瞬間。
聞こえてくる歌がはやっていたころの日々が、サアーッと眼の前を流れていく。
それはとてもくっきりと鮮やかで、ついこのあいだのことのようにも思える。
ほかにも、なにかの瞬間にカチッと心の鍵に入って、ふいに現れては立ち去って行くシーンがある。
こんな、桜の季節、小説の同人誌仲間と一緒に飲んだあと公園で騒いでいたときのことだ。巡回していたお巡りさんに注意され、「これって、小説のワンシーンにならないかな」、などと言っていたあの仲間たちは今頃どうしているだろう。
精神科医をしていた一人は酔っぱらうとよくニーチェの話を出しては、くだをまいていた。やっぱりエリートさんは違うなあと思ってふんふんと話を聴いていると、その人は、「人生は遊ぶことに意味があるって、ニーチェも言っているんだぞう」と叫んでは歌っていた。
そして、そばにいる女の人を口説くので、ああ、また始まったのね、と女性連中は相手にせず、あしらっていた。
まじめに相手にするのは避けたい相手だったけれど、彼のことで思いだすのは、「苦しいことばかりで、意味をみいだせない人生も、遊ぶことで乗り越えていけるんだぞう」という口癖。
「遊び」の意味は深く、その言葉は、ときおり、ぴたっと心の鍵穴に嵌まる。
平安時代の歌にも、「遊びをせんとや生まれけむ」というのがあるようで、初めはただそのままに受け取っていたが、歌の続きを知って、遊ぶ女たちの哀しみに触れた思いがした。
たしかに、なんにつけても、遊びとかゆとりがないことには、うまくいかないような気がしてくる。
それでときどき、なんも考えず、ただ猫に遊んでもらう。
なにもしないでぼんやりとしている時間も、大事なんだよね、と怠け心に言い訳をしながら・・・ね。