海へ行くのは、ずいぶんひさしぶり。まだ視界のなかに入ってこないうちから、近づくにつれて潮の匂いが強くなる。もうすぐ海だぞ。その高揚感がいつも心地よい。大井川の河口から駿河湾へと続く流れを見たのは初めてだ。
吉田公園には、海へと続く道がある。海には人影がなかった。夏に向かっている色の海が、遠く伊豆半島を臨みながら広がっていた。
この公園は、いつも通っている蓮花寺公園とはまた違う趣がある。海が近いせいか、開放的だ。
歩いていると、猫に出会った。しかも、名前がまる子。やっぱり餌やりのボランティアの方から餌をもらい、ごろんごろんとしていた。
まる子という名前の由来をたずねると、背中に丸い模様があるからと、ボランティアの方が言う。「公園の猫を守る会」というカードを下げていて、公園には全部で8匹の猫がいるのだと話していた。自分も餌やりをしているという話をすると、笑っていた。
なにも話さなくても、おたがいに苦労はわかるよねえという感じが伝わってきた。まる子に近づいて行くと、ころんと寝転んで、まるで丘の上にいたときのまる子のように人懐こい。
海を堪能して帰ると、三毛子が庭にきているモモをみて、出してと大騒ぎ。出してやるとすっ飛んで行き、二匹してかくれんぼ。この二匹をみているとほほえましい。
この日の餌やりは他の人が行ってくれることになり、ひさかたぶりの休息。休むと、頭も体もしばらくぶりにリラックスしているのがわかった。たまには休息も必要なんだってしみじみと思った日。
翌日は、丘の上の木が切られているよ、という連絡が入り、気にしていると、枯れた枝を切り落としただけで、さいわい根元から切られることはなかった様子。
騒々しいチェンソーの音に、チビはさぞびっくりしたことだろう。トラックが下から上がってくる気配を察して、いち早く茂みの奥に走り込んだそうだ。作業が終わり、みんなが帰ってからも木をみあげて気にしていたようだ。なんだか様子が違っているなあと思ったんだろう。
丘の上にはケヤキの大木が何本も並んでいる。夏の日射しをやわらげ、冬の寒いときにもそばにどっしりと構えていてくれる。そばに大木があるとなんとなく安心する。古墳の丘の木々はそこを守るように、もう長いこと立ち続けていたわけで、魂が宿っているのではないだろうかと思う。
鳥だけでなく人々も、広がる枝枝に包まれる。大きな手を広げるようにして、そこにやってくるものたちを招いているようだ。みんな、この木が根元から切られずにすんだことにほっとしていることだろう。
数日前、いつもそばにある木が根元から切られるらしいということを聞き、かなりさびしい思いをしていた。石の上に座って餌をやるときも、通りすがりの人と話をするときも、ちょっとした瞑想をするときも、その木の枝はつねに頭上にあって、傘のように守ってくれていたからだ。
吉田公園のまる子もかわいかったが、夜になってメールをみると、いつものまる子の写真があった。
こちらのまる子はあいかわらずの愛嬌者だ。なにをしてもかわいいのはなぜ? その答はまる子が握っている。