モーニングリセット

朝、雨戸の隙間から差し込んでくる光に目が覚める。
いつだって、日の光は誰にでも差し込んでくる。

曇りの日にも、雨の日にさえも、光は力を強めたり弱めたりしながら、ちゃんと地球に届けてくれる。
地球上で人々がどんなに争っていても。

だから、朝が好きだ。

前の日には思考がぐるぐるしたり、どんなに心を尽くして説明しても理解してもらえないもどかしさに苛立ったり、自分が誰にも相手にされていないような被害者意識に陥ったりしていても、やっぱり朝はやってきてくれる。

疲れた心も一晩寝れば少しは回復しているし、ときには、あちこちにふわふわとして浮遊していた気持もちゃんと地面に着地している。

ずるずるとまた夜の思考にひきずられて行きそうになる時には、とにかく起きて、朝の光を浴びる。
すると、またなんとなく、少なくとも今日一日はやっていけそうな気がしてくるのです。

おとなになると、寒い冬は嫌いになるけれど、子供の頃の冬はパラダイスだった。
だって、スキーもスケートもできるから。
なにより好きだったのは、朝、誰も踏んでいない新雪の上を歩くことだった。

雪が降り積もって境界がなくなった雪の平原を歩くのは、それはもうとても気持がいいものです。
他の季節にはない自由な平原が広がっていて、どこまでも歩ける気がしたものです。

一足運ぶごとに、雪が音を立てて沈む。
自分の重みの分だけ。

膝まで沈むときもあれば、雪の下が凍っていて、ほとんど沈まないときもある。
凍りつく季節には、友達みんなで坂道の上から水を撒いて凍らせ、翌朝、そりで競争をした。

大人たちは怒り狂うが、子供たちはそり遊びに夢中。
小さな崖も、雪の季節にはスキーのジャンプ台になる。

今でも、その頃のことを思い出すと、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる気がして、まだまだそり遊びやらスキーのジャンプやら、なんなくこなせるような気がしてくるのが面白い。

冬の静岡の朝もそれなりに寒い。
けれど、それよりもずっとむしろ寒さが厳しかったはずの北国のあの頃のほうが、むしろ汗をかくことが多かった。
楽しいと寒さなんて感じないものらしい。

おとなになって年を重ねても、楽しさを感じるアンテナはちゃんと働いていて、楽しいことには敏感に反応する。
ただそれを外に表すのが下手くそになってくるようだ。

楽しい時にはめいっぱい楽しんで、苦しい時には夜の底に沈んで体を休める。
すると、朝は必ずやってきて、みんなの上に光を届けてくれる。


きっと、また一日が素敵な日になるようにと、私は、朝の光に向かってつぶやくのです。
そんなときには、どこからか、ニャアと言いながらミーナが飛んできて、ベランダのフェンスの上をいともたやすく歩き、振り返る。

その様子を冷や冷やしながら見ている私に、ミーナは、「いったい、なにをしてるの?」と言いたげな顔を向ける。
「あんたがね、もう少し、いい子になるようにってお願いしてるんだけど」と、私。

するとミーナはまた、フェンスの上を器用に歩きながら、向こうの端まで行って、戻ってくる。
近づいてくるミーナの背中を撫でると、その毛は、ふうわりと朝日の暖かさをはらんでいるんです。

しっとりとしと暖かい毛並みを掌に感じながら、私は猫から朝のぬくもりを分けて貰うのです。


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