オリンピックとワクチン

由比の海岸

オリンピックの水泳は、見ていて涼しげ。そして楽しい。なぜかっていうと、わかりやすいからだ。勝負は一目瞭然。はっきりしている。世の中、はっきりしないことが多いなか、こんなにわかりやすく、しかもすっきりとする競技はないような気がする。で、二度目のワクチンを打って熱が出たので、ごろごろと寝転がってオリンピックをみている。

women swimming on the pool
写真はイメージ      Pexels.com

水中カメラに映し出される姿はことのほかきれいで、みとれてしまう。勝負がついて、水からあがったときの顔もいい。

勝ったものの顔は美しく、そして、負けたものの顔はそれぞれだ。落胆する。悔やしがる。それは当然のことだが、なかには呆然として魂をなくしたようにみえるものもいる。今、ここにある現実をどう消化していいのかわからないという顔。それをみている自分は、その人のこれからを考えてしまう。

再度、勝負をかけるのか、それともスパッと諦めて立ち去るのか。どっちにしても厳しい選択だ。勝者は、これは幼いころからの夢だったのだとメダルを握りしめて言うが、負けたものにしても、きっと幼い頃からの夢だったのだろう。同じように夢をみたものたちの分かれ目がテレビの中に示される。

そんな中にあって、ほっとする場面があった。200メートルバタフライで銀メダルを勝ち取った本多選手だ。はしゃいでいる顔が無邪気で、天真爛漫という感じ。こんな大舞台でこんなふうに自然体でいられるなんて・・・、と思わずこっちまで笑ってしまうほど。オリンピックにありがちな悲壮感などまるでない。

person swimming under body of water near blue inflatable ring
              写真はイメージ          Pexels.com

なにかといえば、悲願のメダルと繰り返す報道を前にして、日本の選手も変わったなあ、と思う。どんなふうにしたら、こんなふうに育つんだろうなあという選手は、ほかの競技にもいて驚くばかり。子供のころから目標をはっきりと定めていることが共通している。

水の中に入ると世界が変わる。おおげさにいえば、人生観も変わる。水に顔すらつけられなかった私がどうにか泳げるようになったときの感想だ。海水浴で溺れ、意識をなくした経験から、水への恐怖が生まれた。だから、それをどうにか克服して泳げるようになったとき、気持だけは、テレビでみる水泳選手。うれしくて、夢中で泳いでいた。

私が通っていたプールの天井はガラス張り。夜は月がみえ、晴れているときには日の光が差し込んで、水の中でゆらゆらと揺れる。水のなかに、もう一つの世界がある。いやなことがあったとき、泣きたいとき、そんなときは水に飛び込む。そうすれば、水の上の現実は去り、水に包まれた自分だけの世界に浸れる。差し込む光のなかで泳ぐのは、まるで人魚にでもなった気分。

初めは水に顔さえつけられなかったのに、気がつけば、ゆっくりならば、1キロぐらい泳げるようになっていた。なのに、もう何年も泳いでいない。夕方からの猫の餌やりが始まってから、時間のやりくりがつかなくなったという理由もあるが、このごろテレビの中の水泳選手たちをみていたら、また泳ぎたくなった。できない理由をあげればきりがないから、また始めてみよう。

といいながら、ごろりと横になって、オリンピック競技をダラダラと見ている現実。ギャップありすぎだ。

そばで三毛子もぐたっとしていると思ったら、いつのまにやら外に。えっ、なんで、出られないようにしているのにと思い、急いで二階にあがってみたら、網戸もしまっているし、ベランダの飛び降り防止のネットも外れてはいない。いったいどこからどうして降りたのかは謎。なにかとミステリーの多い猫だ。

ヤッタア、という顔で、庭を得意げに歩く三毛子。すると、外で待ち構えていた、ストーカー猫にさっそく襲われそうになり、あわてて家の中へ逃げ込んできた。ほらほら、だからおとなしくしててよ、と私。

黄色い縞模様のストーカー雄猫。このごろいつも外で、三毛子を待ち構えている。外に出さないようにしているが、三毛子の逃亡騒ぎはまだまだ続きそうだ。懲りない三毛子だから。

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