暑さや雨続きにうんざりしながら、ぼうっとしていた8月。ようやく9月がきてやれやれと思っていたら、いろんなことが続いて起きた。それも、あまりよくないことばかり。すると、こんな言葉が浮かんできた。
そのまんまで、だいじょうぶ。
カッコ悪くても、鈍感になる。
誰にも気づいてもらえなくても、自分が見てるから。
頑張ってもうまくいかないときはある。
そうかと思うと、なにもしなくても、偶然のようにうまくいくときもある。
きっと、一つのいいことは、ほかのたくさんのうまくいかないこととひきかえにやってくるのかもしれない。
そう思うようにして、いやなことは、なにかの褒美の下ごしらえだと考えることにした。
かわいいものや、きれいなもの、そうして守ってやりたいものが身近にほんの少しあれば、それで充分じゃない?
それらを眺めて、心が潤えば、それはもうご馳走だ。
たとえばある日突然に、これといった理由もなく、それまで親しくしていた誰かに冷たい態度をとられても、それは自分とは関係なくて、その人の感情の問題だって考えることにする。
自分を責めたり、理由を探して振り返ってばかりいても、ちっとも楽しくなんかないからさ。ほかの人の感情にまで責任を感じることはないんだから。その人との楽しかった時間だけを切り取って、心のアルバムにしようっと。
ある日、突然に、鏡の中の自分の顔が変わってしまっていることに気づいても、見なかったことにして、ほほえんでみよう。だって時間は止めようがないし、自然とはそういうもんだし。高級な化粧品を使えば、少しはましかもしれないけれど。まあ、そんなことはできないし。
そうゆうことを考えていたら、以前に親しくしていた彼女のことが浮かんできた。一年中ジーンズを穿き、いつも同じようなシャツを着ていた彼女が、とてもカッコよかったことだ。ほとんど化粧もせず、白髪を染めもせず、いつもシャンとして歩いていた。
その人の後ろ姿をみては憧れていたものだ。自分もあんなふうになりたいなあと。
なのに、その頃の自分は新しい服を買ってはすぐに飽きて、また別のを買ってと、そんなことにうつつを抜かしていた。きっとストレスをごまかすためにそうしていただろうから、買っても買っても、充足感は得られなかった。
一方、彼女は、いつも同じような恰好をしているのにカッコイイのだ。
その違いはなんだろうとずっと思っていた。そしてやがて気づいた。かっこよかったのは、彼女がとても自然体だったからだって。かっこつけないで生きるって、簡単なようで難しい。誰だって、自分をなにかで守ってやりたいんだもの。無理にさらけだすこともないし、少しは見栄もはりたいものだし。
一度だけ、彼女が泣きはらした眼をしていたことがあった。彼女を親代わりに育ててくれた叔母さんが亡くなったのだといった。そのときの彼女は、いつもと違って弱々しく、抱きしめてやりたいと思ったほど。
それから彼女とは離れて住むようになり、そのうちに会おうと言っていた。そんな言葉を交わしているときには、きっとそのうちには会えるだろうと漠然と思っていた。
そして、突然に、亡くなったということを知った。ある日突然にやってくるものは、ひそかに、足音もたてずに、漫然と暮らしているときに近づいてくる。まるで、猫が近づいてくるときのように。