行きあたりばったり

車で走っていると、はっとするほどきれいな景色に出会うことがある。すると、どんどん先へと走って行きたくなる。古いナビなどあまり役にたたないから、もう、勘だけが頼りだ。

すると案の定、期待通りの風景に出会うこともあれば、がっかりするような場所に出てしまうこともある。

こんなところに家があるなんてと思い、みとれた場所。猫も自由に走り回れそうだ。ポツンと一軒家?

とくに目的地が決まっていないときは、ほとんど行きあたりばったり、気ままに行く。行く道を決めずに気儘に走るほうが、たいてい、思いがけずいいところに出会う。


これは、びく石というところからみた景色。

山里のひなびた里に出ると、思わずあたりを見回し、遠い記憶をまさぐっている。ここに子供たちの遊ぶ声など聞こえたら、タイムトリップなのだが、山里はどこもひっそりとして人の姿も声もあまりない。

みあげると、モミジの葉っぱのあいだから差し込む日差しがまぶしい。現実に戻り、タイムトリップは瞬時に終わる。

計画もたてずに行きあたりばったりに進む。それは自分の人生そのもののような気がする。もう少し計画的に生きればよかったんじゃないかと反省するのだが、それはそれで思いがけないことにたくさん出会って面白かったとも思う。ただ、行きあたりばったりには、無駄な動きが多かった気がする。

先日、瀬戸内寂聴さんが亡くなられたというニュースがあって、思いだしたことがある。だいぶ前になるが、テレビ番組の制作をしている息子が、瀬戸内寂聴さんにインタビューする機会を頂いたときの話なのだが、寂聴さんは話の途中で、「あなたのお母さんはどんな人?」と尋ねてきたという。

寂聴さんはどういう意味で、そんな質問をなさったのか。息子の態度が失礼で、「いったいあなたはどんな母親に育てられたんだい?」という意味かもしれないし、もしかすると、けっこう三枚目の性格の息子をみて、面白いと思ってくださったのかもしれない。

寂聴さんは、たとえ何歳であろうとも、やってみようかな、と思うことはなんでもやってみたほうがいい、とおっしゃったそうだ。そんな生き方は、きっと寂聴さんの生命力の源だったのだろう。
これをしたいけれど、でも無理だろうなと弱気になるときは、その言葉を思う。すると好奇心が湧いてくる。

このごろ夢中になっているのは、家の中の模様替え。 プチリフォームだ。なるべく費用をかけず、物を減らしたり動きやすいように配置を変えたりするうちに、しだいに快適になるのをみて、どんどん手を入れたくなってきた。

初めは玄関回りだけのつもりだったが、つぎにキッチンに移って、いくつも重なっていたフライパンや鍋を選り分けて捨てたり磨いたりしている。処分しようと思いつつも試しに磨いてみると、使いこんだ渋みをベースにして蘇るものもある。無心になって磨き、汚れが落ちていくのをみていると、これがストレス解消にもなる。

というわけで、買い替えようと思っていたトースターも薬缶も炊飯器もまだまだ使えそうになり、おんぼろの電化製品が生き伸びることとなった。

なので見た目はたいして変わったわけではないけれど、シンク下の引き出しや食器棚は一目瞭然、どれも見やすく、使いやすくなり、収納のスペースにもゆとりができ、家事の時短にもつながった。

そして、食卓の前のカウンターの下に棚を作り、そこにお茶やコーヒーなどを並べてみると、これがけっこう心地よい空間になった。椅子の一つを三毛子が占領し、それを眺めながらコーヒーを飲むのがまた楽しい。よし、誰かをお茶に誘おう! 

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