ぼっち、の誰か

アズキの見守りを始めてからもうどれくらいたつだろうか。
半年くらいになるだろう。

その前から、ウォーキングのついでに立ち寄っていたから、つきあいはずいぶん長く、もう7年以上だ。
事情があって保護を中断し、しばらく様子見ということになって、散歩がてらに通っている。

アズキは老齢なのでこの夏を越せるかなあと思っていたが、どうやら、この厳しい暑さも乗り越えてくれたようだ。
よく頑張ってくれたね、アズキ。

【ちゃんときれいな水飲み容器があるのに、アズキはここの水が好きだ】

アズキは心変わりが激しくて、昨日撫でさせてくれたかと思えば、今日は逃げてしまうというタイプ。
だから、懐いてくれていると思うのは大間違いだ。

夕方遅くに、古墳の丘の夕日を見てから立ち寄り、ちょっとお腹が空いているようだったので、餌をやるとよく食べて、そして、近くの水路に水を飲みに行く。
ルーティンをしっかり守る子だ。

バイバイというと、帰るんだなあとわかっているアズキは、じっとこちらをみつめる。
こうやって、立ち寄ってくれる誰かをいつも見送っているんだろうね。

【古墳の丘から見た夕日】

街灯に小さなその体の影が映り、しょんぼりしているようにみえる。
そういうときは、切なくなる。

アズキのこんな姿を見ていると、世の中にはこんなふうに、一人ぼっちで夕方のさびしくなる時間にひとりぼっちのさみしさをこらえている子供たちがいるんだろうなあと考えてしまう。

一人ぼっちだという意識は怖い。
誰も、自分のことに気づいてくれないし、かまってもくれないという思いは、しらずしらずのうちに心に重たく沈みこんで、なにかあっても、他の人に話すことさえしなくなる。

自分は取るにたらない存在だと思うようになり、自分で自分をおとしめていく。
とくに、子供や老人は、そうなりやすい。

やっぱり、誰かとつながっていたいのだ。
ポツンと、自分の影をみつめているような日々を送るのはよくない。

それでは自分になにができるのか。
たわいのない会話や言葉がけ、挨拶など、ほんの些細なことだが、そんなことに救われるときもある。

それで、以前に講習を受けた「話し相手ボランティア」をまた始めてみようかと考えている。
ああ、今日はいい日だって思ってくれるようなら、うれしい。

いっとき、東北に移住した時、村八分的な目にあった経験から、そんなことをよく思う。

アズキには言葉が通じるらしく、なにか話しかけると、しわがれた声で返事をしてくれる。
ミーナも返事をするし、独特な声で話しかけてもくる。

【ミーナの特別観覧席】

だから、人は犬や猫を飼いたくなるのかな。
たとえ、誰も気づいてくれなくても、ぼっちであっても、この子だけは自分を信じてくれていると思う。

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