ひさしぶりに涼しい、雨上がりの朝。
しばらく、美しい虫の声がしていた。
加えて、鳥の声も。
ふっと、君のことを思い出した。
小さな沼のそばで私を待っていて、そうして、沼の淵にあった桑の実をほおばっていた姿。
その沼の奥にはさらに、沼がいくつもあった。
奥の、誰もいない沼には、浮島といわれる小島があって、風が吹くと、少しずつ動く。
その一年ほど前、私が銀座の並木通りのレストランでウェイトレスをしていたころ、君は、その店のランチタイムにやってきては、隅の席でいつも一人。
銀座の並木通りにあり、松屋というデパートの近くにあったその店で食事をすると、夜には相当な値段になるのだが、昼のランチタイムは格安で人気があり、オフィスから流れ出てくる人たちで混みあった。
昼休みに連れ立ってやってくる客が多い中、君はいつも一人だった。
ちょっと気難しげな顔でやってきては、時間をかけて食事をした。
そろそろランチタイムが終わる時間、他の客が立ち去ったころに、空いたテーブルのクロスを変えている私に、君は話しかけてきた。
私にとって、その日は最後の勤務日で、もう会うこともないだろうと思い、つい、そのことを伝えてしまった。
実家の父が脳梗塞で倒れ、数日中には帰ること、そしてもう東京には戻らないことなど、リネン室から持ってきた糊のきいたクロスをパリパリと音を立てて広げながら、たしかそんなことなどを話したように思う。
すると、君は電話番号を書いたメモを私に渡し、ここに連絡してくれという。
数日して、部屋の荷物を送り、出ようとしたときに、迷いながら電話をした。
それから、ひと月ほどしてからだろうか。
君から突然に電話がかかってきて、実は、近くの沼まできているのだという。
驚いて、でもなんだかうれしくて、父にはなぜだか本当のことが言えなくて、買い物に行ってくると嘘をついて、山道を走った。
全く動けないわけではないが、父の介護に明け暮れていた気分を、たまには変えたいという気持もあった。
沼に着いて車を止めていると、君は桑の実をほおばりながら近づいてきて手を振った。
母は、私が中学生のころに亡くなっていて、ほかに誰も父を看るものもいない心細さにたまらなくなっていた32歳の私に、君は、東京からたった数時間のところにこんなとこころがまだあるんだなあと感嘆し、沼の淵の草むらに座ったまま、ずっと空を眺めていた。
「虫が鳴いてるよね、鳥の声もするなあ」と嬉しそうに笑いながら。
まるで、美しい絵画でも見ているようだよね、ここいらの景色は、とも。
なにかたがいに話すわけでもなく、二人してぼうっと空を眺め、鳥や虫の声に耳を傾けている時間が過ぎて、やがて日差しの角度が変わるころ、君はようやく立ち上がり、そうして、ぽつりと、またくるよ、と言い、黒い車に乗って立ち去った。
そのあと、2、3度、電話で話すことはあったが、君がふたたびくることはなかった。
なのに、あの沼や九月の空の明るさ、桑の実のつやつやとした紫色は、なぜだか鮮明に覚えている。
きっと君は、底知れない深い沼や、息苦しくなるほどの分厚い自然の中に、一人で立つことが怖かったんだろうな。
帰りぎわに、君はぼそっとつぶやいた。
「ほんとはね、あなたが着く前にさ、ボートに乗ってさ、あの浮島のあたりで入水しようと思ってたりしてな」
その言葉は聞かなかったことにしたのだが、やはり覚えている。
今頃はあんがい、したたかに生きているのかもしれない。
※ これは、以前に書いた小説を編集したものです。