あの鐘を鳴らすのは、誰?

きのうまで吹いていた追い風が、今日は嘘のようにぴたりとやんで、向かい風に変わる。
それが、たぶん、人生の終わりの章の始まりだった。

思ってもみないことがつぎつぎと起こり、輝いていた日々を思い出すのも辛くなって、それまでのつき合いをほとんど絶ってしまった。
そして、足は、豊かな自然が残っている公園へと向かっていた。

【富士の夕景】

その頃は足の調子も悪く、池のまわりを一周することさえも難しく、医者からは、無理をして歩くなと言われてもいた。

なのに、私は、先生とか医者とか、そういう人の言うことをあまり信じられない性格で、むしろ、その言葉に逆らうように、あるいは自虐的にもなって、もうどうにでもなれ、というふうな気持のまま、禁じられていた坂道や階段を上ることにした。

だから、公園の滝のある場所、今は「しあわせの鐘」があるあたりから、くねくねとした坂道を上って行き、古墳の丘までたどりついたときには「みろよ、やったぜ! あの医者、ざまあみろ」と叫んだ。

【伊豆半島と駿河湾】

なにしろ、遠くではあったが、富士がみえた。
伊豆半島に抱かれるように見える駿河湾は、晴れた空の下、海から光の粒が躍り上がるようにきらめいて、「ああ、生きててよかったなあ」という思いにさせられた。

そしてそこにいたのが、チビとまる子の親子猫だった。
ひどく痩せていて、餌をちゃんともらっていない様子をみて、餌をやりに通うことを日課にした。
そんなルーティンをこしらえなければ、崩れてしまいそうな心情だったのだ。

丘の上に通ううちに、とても魅力的な初老の男性に出会った。
今どきにはめずらしい男気を感じた。

【チビとまる子 母と子】

そこで出会う人のほとんどは、言葉を交わすようになってからも、名前も住むところも言わないゆきずりの関係。
なのに、その人は、自分から名前を名乗って挨拶をしてくれ、ねぎらいの言葉までかけてくれた。

自分の家にも5匹の猫がいるといい、猫の話をしているうちに日が暮れてきて、慌てて一緒に坂道を降りることが多かった。
わりと人づきあいが苦手な夫も、その人とはうちとけて、3人一緒の帰り道はいつもにぎやかだった。

そして、今頃の季節のその日、池のまわりはイルミネーションの点灯式でにぎわっていた。
バイオリンの演奏が響いてきたので、ちょっと覗き、「それじゃ、また明日ね」と、たがいに笑いながら声をかけあった。

【空の月、水辺の月 同じ三日月】

けれど、3人一緒の、その明日はこなかった。
連絡するほどの親しさではなく、その人が住んでいる場所はわかっていたが、電話番号は知らなかった。

気になったが、訪ねていく勇気も理由もなかった。
ただ、古墳の丘で毎日会ったというだけの関わりなのだから。

あまり体の調子がよくないと言っていたから、たぶん具合が悪くなったのだろう。
そんな状況のときに訪ねていったところで、迷惑になるだけだ。

それ以来、その人と会うことはなく、消息もない。
けれど、この季節になり、イルミネーションがともると、必ず、その人のことを思うのだ。

昨日は、イルミネーションの点灯式だった。
あの日にくらべると、屋台も出て人々の声が飛び交い、比べものにならないほど賑やかだった。

午後6時、池のまわりには一斉に色鮮やかな光がともり、滝のところにある鐘が鳴り響いた。
ちょうど私はそこの前にいて、鐘をみあげ、眼をとじた。

確かに、私の中では、あの人が鐘を鳴らしているのだった。

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