1ミリの希望、10メートルの絶望

なにか、落ち込むようなことや不安にさらされるようなことががあったとき、私は、あのことを思い出し、両脚をふんばる。

あのとき、絶対絶命のときだって、自分は諦めなかったではないかと。
もしもあのとき、諦めていたら、今こうして生きてはいないだろうと。

絶望感に襲われそうになると、きまってそのときのことを思い出す。
腰までつかった水流に体を持っていかれそうになりながら、今この時諦めたら、自分は確実に死ぬという思いを抱いて、必死に岸に向かって手を伸ばしたときの、ぴりぴりとした緊張感がよみがえってくる。

雪深い土地に移住した時期、冬といえば必ず雪掻きがつきまとう。
その雪掻きをして水路に流していたとき、重い雪に体を持っていかれて足が滑り、雪もろとも水路に投げ出されたときのことだった。

上流から雪の塊を乗せて流れてくる水は、凍えるほどに冷たくて荒々しい。
その塊をよけようとすると、体ごと一緒に持って行かれてしまう。

叫び声をあげても、家が離れているし、周りには誰もいない。
みんな家の中にこもっているから、声は届かない。

冷静にならなくては、と足を踏ん張りながらあたりを見回し、雪がつもって掴まりどころがない岸になんとかしがみついた。
すると、雪かき用のシャベルが手を伸ばしたわずかな先にある。
体を伸ばし、それこそ、伸ばした指先の数ミリ先にふれる柄をそろそろとゆっくりと引き寄せる。

【スノーダンプ】

ラッキー、なんとかこれでいけるぞ。
私は、スノーダンプと言われる、長い柄のついた幅広のシャベルをようやく引き寄せて、それを立てて足を乗せ、まず片足をあげてつるつるになっている岸辺に慎重に上った。

どうにかして全身を岸に乗せることができたとき、赤いスノーダンプは、私の身代わりのようにゆらゆらと揺れながら流されていった。
雪国では、一冬に何人か、そんなふうにして、水路に流されて命を落とす人がいる。

それでも、雪は容赦なく降り積もる。
庭一面の雪と、とりあえずの通路をつくるために寄せられた雪の小山を見て、今日こそは、この雪を裏の水路へ流して片付けけなくてはと思う朝は、果てしのない作業に絶望感すら覚えたけれど、その作業は、忍耐力のない私にはいい修行になった。

全ては、最初のひとかきから始まるのだ。
先ばかり見ずに、足元をみてひとかきずつ進んでいくと、やがて、水路へと続く道ができている。
そしてその道を使って、庭に小山のようになっている雪をスノーダンプで運んで流すのだ。

水路に落ちたときの、伸ばした指の、ほんのわずかな先のシャベルは、腰まで浸かって流されそうになっていた時のわずかな希望だったし、庭に寄せられた雪が小山のようになっているのをみるときは、絶望感に襲われてたしまったのだけれど、でも、初めのひとかきから始まった雪掻きを終えたときには、不思議な充実感が生まれたものだった。

深い雪の片付けだって、初めはひとかきからなんだよね。
ちょっと面倒で、手をつける気になれない仕事を眼にしたときには、そのときの経験からそう考えることにしている。
まずひとつ、と。

【飯豊連峰、山並みのふもとの散居集落】

希望なんてなんもないようにみえるときでも、もしかすると1ミリ先に、なんか掴まるものがあるかもしれない。
そう思えば、とりあえず切り抜けられる。

ネット上には、前向き思考の、人々を鼓舞する言葉がよく並んでいる。
でもね、無理に思考を変えたところで続かないのよね。
そんなときには、自分の気持に正直でいい。

不思議なことに、屋根から落ちてくる雪と降り積もる雪が一緒になって窓のそばまで迫り、2匹の猫と一緒にすべての外界から遮断されているように感じるときには、シェルターに入っているような安心感に包まれたものだ。
この世界は誰にも邪魔されないという安心だ。

【移住してまもまく、小さな体で道端を縦列で歩いていた猫たちを保護した】

今、雪の苦労がないこの土地にきてからは、雪の苦労もないかわりに、そんな気分になれることもない。
このところ、ひどく暑い日が続いていると、ついつい、あの土地の冷たい冬のことなど考えて、少し涼んだ気分になっている。

それにしても、私を鍛えてくれたあの土地の力は、すさまじかった。
今の季節は、庭のデッキから眺める飯豊連峰がきれいだろう。

雪が融ける季節は、その飯豊連峰を越えていく白鳥の群れがみえた。
上昇気流に乗るために、白鳥たちはリーダーを先頭に編隊を組んで、何度も挑んで失敗を繰り返しては乗り越えていく。

【ミーナは夏になると、ザルに寝る】

その姿には、いつも力をもらったものだけれど、それにしてもみんなについていけなくて取り残される白鳥は、いつまでも旋回をして、哀し気な声をあげながら、みんなを見送っていたっけ。

「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」・・・・<詩 カール・ブツセ>
白鳥の編隊が山脈を乗り越え、飛んで行く姿を見ると、その詩の一節を思い出した。
自分も、今すぐにでも、山の向こうへ飛んで行けたらなあと思いながら。

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