朝顔とひぐらし

 

朝顔の季節がやってきた。朝顔展に行ってみると、ちょっと変わった模様の花もあった。小学生のとき、理科の宿題で朝顔の種を先生から渡され、育てるという課題があって、庭の隅で育てたことを思いだした。

北国の夏休みは短くて、毎年、休みが終わるころには宿題が山積み。きまって慌てていた。あと何日もないというなか、絵も作文も課題もみんな中途半端なまま。対して妹はいつも余裕で休みの終わりを迎えていた。パニックになりそうな気持に、ひぐらしの鳴き声が胸に響いた。

しかも、私が子供のころには、八戸の祭りはちょうど夏休みが終わるころにあって、気持が騒ぐ(郷里では、じゃわめぐ、という)ことこのうえもなかったのだ。

※ 写真は八戸祭りの案内より引用 近年の日程は八月初め

今でも夏になると、郷里の祭りを思いだす。カクンカクンとリズミカルに歯を打ち鳴らすお神楽が通った後に、大きくてきらびやかな山車がつぎからつぎへと連なってくる。山車の上には、もろ肌ぬいで威勢よく太鼓を叩く人がいる。私の太鼓好きの原点はあの祭りだ。

今、丘の上では、夕方になるとひぐらしのせみしぐれ。なんとなく切なくなるのは、子供のころの、あの切羽詰まった記憶のせい? それとも、宿題の山を前に、祭りをみに行きたくて焦がれるような気持を思いだすからか。

チビは、日陰を選んで夕涼み

坂道に誰かが植えたひまわりの種がようやく育ってきた。ひまわりの赤ちゃんみたいだ。

東屋の近くにも、誰かが植えた花が開いていた。一面の緑のなかにあって可憐。丘は、いろんな人がいろんな足跡を残していく場所になっている。

かなりご年配の婦人が、通りすがりにまる子をみて近寄ってきて、飼っていた猫を手放したという話を辛そうに話した。病気で入院することになったためだったという。知り合いの人に里親になってもらったそうで、そんな事情もあって、まる子がいとおしいのだという。坂をのぼってくるのはきついが、まる子のことをつい考えてしまい、くるのだという。

まる子は、こうみえて、誰かの役にたっているんだということだ。生きてるだけで、まるもうけだね、まる子は。