鎮魂の夕空

【蓮花寺池公園の夕暮れ】

先日のブログ、「花は咲きごろ 昼寝もしごろ」で紹介した猫、ヒジキが虹の橋を渡ってしまった。それも突然に、しかも不審な状況で。

寿命ならば諦めもつくが、そうではないようだ。誰かに池に投げ込まれたのではないかという話だ。目撃者がいたわけではないから断定はできないが、いろんな状況から考えると、おそらくそういうことだろうというのが、おおかたの見方だ。

一見、黒くて不気味な感じがしないでわけではないが、その風貌に似合わず、性格はとても穏やかでやさしく、名前を呼ぶと返事をしてくれるいいやつ。前にも述べたが、神様のちょっとした手違いではなかろうかという気がしてならないほどに、風貌と性格はまるで違うのだ。だからファンも多かった。

以前にもやはり池に投げ込まれたことがあって、そのときは運良くすぐに発見ができ、そばにいた人が助けてくれたらしい。だが、今度は早朝で、まわりには人がいなかったことで、餌をやるボランティアの人が池に浮いているのに気づいて、すぐに人を頼んで引き上げたそうだが、すでに遅かったという。

【いつもアズキに寄り添っていた。】

もともと捨てられてしまった猫。でも、さいわいにもここで生き延びて、やはり同じ境遇のアズキという雌猫といつも一緒にいて、まるでアズキを守るようにして、そばにいた猫だった。

【暑いときにはこんなふうに】

写真のように、いつだって二匹はそばにいて、とくに、厳しい冬は、池からの冷たい風をしのぐために二匹くっついて温めあってしのいでいた。そんな、けなげに生きているものたちのささやかな暮らしを奪うなんて、なんということだろうか。

猫がみずから池に近寄ることはない。飲む水はいつもそばに置いてあるのだから。どう考えても人間のしわざだろうと、誰もがそう考えてしまう。しかも前にも一度同じようなことがあったのだから、たぶん同じ人間のしわざだろう。

チビまる子に餌をやっていると、なぜ捨て猫に餌をやるのかと避難されることがある。野良猫なんて目障りだと。そんな人にいつも返すのは、ちゃんと手術をしていること、猫を捨てたのは人間だということ。猫に罪があるわけではない。生まれてきた命はみんな同じなのに、とそのたびに思う。

人間に捨てられて、厳しい環境でもどうにか生きているものを、どうして、さらに痛めつけるのだろうか。それでなくても、こういうところで生きる猫たちは、寿命が短いのだ。それを、断ち切る権利なんて誰にもないはずなのに。

                        写真 kさん

桜の開花が始まり、池のほとりに並ぶぼんぼりが、まるでヒジキの弔いの灯火にみえてしかたがない。

ヒジキの話を聞いたのが24日。それで今日、残されたアズキのことが心配で、いつもヒジキと一緒にいた場所に寄ってみると、姿がみえない。世話をしているボランティアの人に話を聞くと、昨日はあまり食べなかったが、きょうはご飯を食べてくれたという。よかった、と胸をなでおろした。

ヒジキのいないこれからのアズキの暮らしを考えると、不憫でしかたがないが、このことをなんとか乗り越えてほしいと願うばかりだ。

ときどき、どこかの公園で猫が惨殺される事件が起きるたびに人間の残酷さに気づかされ、さらに、そんな人間がすぐ近くを歩いているかもしれないと考える。

この公園でも以前は猫たちがひどいめにあっていたらしい。まる子たちも犬をけしかけられたり、なにか液体をかけられたりしているから、市役所に連絡をし、注意の看板を設置してくれるように要望した。そんなことしかできない自分を情けなく思いながら。

通りがかりに立ち寄り、ヒジキ、と声をかけると、のっそりとした体に似合わず、小さな声で、ニャッと返事をしたヒジキ。きっときっと、虹の橋を渡った彼岸では幸せになってね。そして、これからはひとりぼっちで暮らすことになるアズキを見守ってね。

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