麒麟の時計

これは香時計といって、お香を焚いて時を計るもの。二つの麒麟のあいだにぶらさがるブロンズの玉が、お香が燃えていくにしたがって糸が切れて落ち、下の金属を鳴らすという仕組。古代中国では、夜間の時間を計るものだった。これはミニチュアだという。うん、確かに、一定の距離に玉をおけば、そうなるというわけだ。

古い時計が飾られているというニュースを知り、岡部町の柏屋に行った。季節ごとにいろいろな催し物を開いているところである。案内をしてくださった方が、きのうはNHKの人が取材にきたと話していた。大河ドラマ、「麒麟がくる」と関係があるのかないのか? 息子がNHKに勤務しているが、ドラマ関係ではないから訊けないな。

ほかにも水時計や日時計など、いろんな時計が展示してあった。古い掛け時計が並んでいるのをみて、実家にかかっていた振り子時計を思いだした。この写真のものより大きなものだったが、いつもチクタクと音を立て、大家族を見守っていた。(父母、祖父母、叔母、6人のきょうだいに加え、ときおり、親戚の子供も預かっていた)

ところがある日、その時計が柱から消え、部品が板の間に並べられていた。分解したのは妹で、分解してみたけれど、組み立てられなくなって呆然としていた。

ただの部品となって床に並んだものは、とても時計とはいえなかった。救いだったのは、分解した順に、きちんと並んでいたことである。だから翌日の朝にはまた、部品は時計となって元の位置にかけられていた。

三毛子のためにキャットタワーを作ってやると、時計がそばにあるので手を伸ばしてしまう。時計の秒針が動くのを不思議そうに眺め、手をのばすので、さっそく時計の場所を変えた。

時というのは残酷でもあり、癒しでもある。とても乗り越えられないと思うような心の痛みも、時とともに薄らいでいく。三毛子もそのうち、人間はそんなに怖くないものだと気づいてくれるかもしれない。このごろは猫じゃらしで撫でてやると、気持よさそうにしている。

我が家の、どこにでもあるようなありふれた時計も、ずいぶんと長く私たちの暮しをみてきた。前の猫たちのこと、私たちが笑ったり喧嘩をしたこと、泣いたりしたことも。

夕方になると、時計を気にする癖ができたのは、丘の上のチビまる子のもとへ通うようになってからだ。昨日は雨風が強く、カッパを着ていても濡れてしまった。こんな日には猫が出てこないことも多い。空腹よりも、濡れるほうが体に悪いことを思い知らされているからだ。

それでも、翌日には何事もなかったみたいにして、こんなふうにまどろんでいる猫をみると、にんまりする。

無事でよかったね、とそっと声をかけて通りすぎる。

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