河津桜がこんなにきれいに咲いている。そばを通るときにはため息がでるほど。
それなのに体調を崩してしまい、毎日、ハアハア、フウフウ言いながら坂道をのぼってチビまる子のもとに通っていた。家事は最低限のことしかできなくなり、家の中は日ごと乱雑になっていった。
昨日あたりから体調もどうやらようやく落ち着いてきたので、少しずつ片付けることにして、どうせやるならと、ファイルしていた書類にも手をつけることにした。途方にくれるほどの、というわけではないが、やはり書類の整理は時間がかかる。
そして、その中から手紙類がでてきて、しばらく眼をとめてしまった。すでに亡くなった人の手紙にはどうしても心が揺さぶられ、なかなかはかどらない。
その人の息づかいが行間からたちのぼってきて、顔や立ち居振る舞い、歩く様子など、次から次へと浮かびあがり、なにか話しかけてくるような気さえする。まるでこの世界に戻ってきて、すぐそこにいて、笑みを浮かべながら手をさしのべてくるように。
それでまた手が止まり、なかなかはかどらない。その人が生きているときには、あたりまえに思えたのに、今はもう手紙のなかでしか会えないのだなあという現実に行きつ戻りつしながらの作業は、楽しいようで悲しいようで、しばらくその曖昧な気持に浸っていたいという思いにもなる。
花の枝に手紙をつけて送る平安王朝の世界には遠く及ばないけれど、やっぱり自筆の手紙はいいなあと、文字そのものに人となりが詰まっている、としみじみ思うのだ。
なかでも、封筒もなく、たった一枚だけはらりと、手紙の束のなかから落ちてきた母の手紙は何度も読み返したくなるような温かみがにじみ出ていた。息子が大学に受かったときのことで、きっと疲れただろうから、これでなにかおいいしいものでも食べさせてやれという内容。お金が同封されていた。
同居している兄夫婦に気を遣っているのか、礼の電話はいらないと最後に書いてある。最後まで、兄たちに気を遣っていた母らしい言葉だ。
ほかにも、小説教室で辛口の批評をしてくれていた人の手紙とか、講師の方のものとか、それはそのまま自分の歴史でもあって、今頃になって、ありがたみが湧いてくる。
それにくらべれば、パソコンでなんでも処理できるようになった今は、そういう感慨を失ってしまったというわけで、便利になればなるほど、人はだいじなものをなくしてしまうんだなあと気づいたわけで。これからは手紙も書こうという思いにいたったのです。
公園にしばらくいたカワセミは、このところの陽気につられて、たくさんの人がやってきて騒々しくなったせいか、姿をみせなくなった。
なかには心ない人もいて、池の干潟にまで立ち入って近づき、写真を撮ろうとし、驚いた鳥が飛び去って行くのです。
幸せの青い鳥さん、おちついたら、またきてね。
富士のお山も、このところ天気がよくて、ご機嫌な様子です。