蓮が開くとき

蓮の花は、早朝、花びらが開くとき、ポンと音をたてるそうだ。ということは、これから一斉に開き始める蓮の池では、あちこちで、ポンポンと小さな音がするということで。一度その場面に出会ってみたいと思いながら、早起きが苦手でまだみたことはない。

花びらが開きかけた花は、たぶん、咲ききったときよりもきれいだ。そして物事も、始めてから少し慣れたころが一番わくわくするときだ。趣味でも運動でも、仕事でも、少しでもできるようになると、バンザイと叫びたくなる。だが、その感激を持続するのはむずかしくて、やがて、熱は冷めてくる。

歩いても歩いてもなお遠い彼方の山を見ながら、単調に続く田んぼのあぜ道を行くような切なさに襲われてくる。

美しいものも、はびこりすぎると邪魔になる。蓮華寺池公園の蓮も、みるみるうちに繁茂し、池を覆うほどになる。そのため、一部を取り除く作業が始まる。

蓮華寺池と呼ばれるようになったわけは、室町時代、北側の山に蓮花寺という寺があったからで、そのころから、池には蓮が生い茂っていたそうだ。一つ一つはきれいなのになあと、まだ花が開く前に刈り取られる蓮が少しあわれになる。

すぐ近くでは、花火大会のための観覧席が造られていて、仕上げの急ピッチ作業。

以前は大きな木が立ち並び、自然の情景が広がっていた場所だ。なぜこんな工事が必要なのかという批判も少なくない。

公園の一大イベントである花火大会の日は、ここに住む猫たちにとっては、とても迷惑な日である。なにしろ、すぐ近くでどでかい花火を上げるのだから、音が半端ない。

花火の打ち上げ場所がすぐ近くにある丘の上のチビまる子は、ただただ委縮するばかりだ。当日の日中は、花火の関係者以外は立ち入り禁止である。一昨年、チビまる子のことが気にかかり、様子を見に行こうとして、山側のハイキングコースから入るのを試みたが、ハイキングコースとは名ばかりで、険しい悪路の連続で難儀した。そのうえ、やっとたどり着いても、花火の予告の発破の音が鳴り響き、チビもまる子も恐怖のあまり、出てこようとはしなかった。それ以来、行くのは諦めている。

轟音とともに打ち上げられる花火、牡丹や菊の花が夜空に開くとき、猫たちはきっとどこかで震えているのだろう。そう思うと、なかなか楽しめない。

人生の、花にたとえれば咲きだそうとする頃、私はいろいろなことに手を出しては放り投げていた。

無謀にも小説にチャレンジしていたころは、花が開きかけてはだめになった。結局はチャンスを生かしきれずに花を咲かせることができなかったけれど、今でも書くことは好きだ。庭で花を育てるのも、動物に触れるのも好きだ。

小さな猛獣みたいなチビが、鳥をみつめている姿をみているのもまたおもしろい。

沈みかけた太陽が、ちょうど半分。ふっと、小さいころに母から言われた言葉を思い出した。一つしかないときには、半分ずつ分けなさいと。それでも、すぐ下の妹とはよく喧嘩をしたもので、ときには、取っ組み合いも起きた。

けれど今は6人のきょうだいのなかで、最も話をする相手になっている。5月の連休には、夫婦でバーベキューをしに我が家にきてくれた。花がしぼんだあとの人生もまた味があるもので、よくも悪くも、予想や期待は裏切られる。

 

 

 

 

 

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