この道はいつかきた道

知らない町で、通ったことのない道を歩いている時、ふっと、あれっ、この道はなんだかずっと昔に通ったことがあるぞ、というような錯覚を覚えることがある。振り返ると、きた道には誰もいない。前にもいない。なにか、この世界に一人取り残されたような感覚におちいる。

そんなときには、子供のころは神経質でよく拗ねていた私に、祖母が諭した言葉が浮かんでくる。

だあれも、生まれてくるときに乗った船っこを、べつなのに乗り換えることはできねえべさ。あっちの船っこのほうがいがったなあと泣いても、どうにもなんね。まわりばっかり見てねえで、自分の乘った船っこをいたわしがって、いっしようけんめいに漕ぐんだ。力が出ない時には、いっときま、休まって、またお月さんがふくらんできたころに漕げばうまくいくもんだえ」祖母は、私によく、昔話を語ってくれた。丘への道を歩くようになってから、子供のころのことを思いだすようになったのは、たぶん、山や木々や広い空のせいもあるだろう。

野イチゴが熟れるころ、山で迷ったことがあった。近所のきよ子ちゃんと一緒に行ったときのことだ。赤い実を探すことに夢中になっているうちに、きよ子ちゃんともはぐれてしまい、あたりを見回すともう薄暗くなっていた。それでも子供心にも、どっちへ行けばいいかということはわかっていたように思う。ようやく民家にたどりついて、家まで帰ることができたのだが、そのときは誰にも叱られず、拍子抜けしたのを覚えている。ただ、犬のカロがくーんくーんと鳴いてすりよってきた。

少し大きくなってからは、予定も決めずに、知らない町や知らない道を歩くのが好きになった。思い立つと、すぐに自転車を走らせた。そして、「行きはよいよい、帰りはこわい」になった。まるでそれは、私の人生そのものだ。

チビとまる子も、ときどき、じっとなにか考えているような背中をみせることがある。

 

富士もようやく雪をかぶって、冬の富士らしくなってきた。ところで、富士の背中はどっちなんだろうか。

 

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