赤い手帳

ちょっと興味深いニュースがあった。移住したい県はどこか、というアンケートをとった結果、トップは静岡県だったという。理由は、温暖な気候をあげた人が一番多かったそうだ。

コロナのせいでリモートワークがふえ、たまに都心に出勤するときにも、静岡ならば楽だということらしい。

そうそう、たしかにそうだ、と同調しながらも、でもなあ、住みやすいところにばかりいると、なんかだれてしまうんだよなあと、ひとりごとが出る。いろんなところで暮らした経験からいえば、住みにくいところだからこその経験もあって、今でも役にたっていることがある。

【この二匹、とっても仲がいいんです。争うのをみたことがない】

その一つが雪かたづけのやりかた。どうせ田舎に住むんならと、山形に移住したときに庭を広めにしたら、とんでもないことだった。

広ければ広いほど、雪の始末が大変になる。前の晩に降り積もった雪を眺めては、これを片付けるのかと毎朝、ため息。だが、慣れてくると、全体をみると途方にくれてしまうので、まず足許の雪から一歩一歩と道を作っていく。

あえて、先はみない。しばらくして、顔をあげると、だいぶ進んでいる。おうっ、やったじゃんと、やる気も出てくる。それを2、3日にいっぺんずつやる。日ごとの始末は、車庫と玄関を結ぶ道づくりと、宅配と郵便配達の人のための道くらいにとどめておいて、体力と気力をためておく。

そんなふうにしていると、リズムができてきて、はかどるようになった。なんでも、初めの一歩、一歩が百歩になる、と気合いを入れる。

と、そんな調子で最初の冬を乗り越えたと思ったのだが、春がくれば当然のことながら 今度は雑草がどんどん出てくる。面倒だなあと放っておけば生い茂って蛇が出そうになるし、近所にも迷惑だ。

それでまた、一気にやろうとしないで、一歩ずつ、少しずつと思いながら作業をした。そんなことをして過ごしていたある日、知り合ったばかりの同い年の女性が、そばを通ったついでにと立ち寄ってくれた。彼女は市のいろんな役に就いている人だった。

そして彼女は近づいてきながら、あなた、そんなの、時間の無駄でしょ。ほかにやることがあるでしょうに。人様の役にたつこととか、何か身のためになるようなことを始めるとか」と、庭に這いつくばっている私に言った。

ごもっとも。たしかに私は、あまりというか、ほとんど,社会に貢献するようなことをしていない。すると彼女は、大きなバッグから赤い革手帳を取り出し、開いて私にみせた。ねえ、あたしのスケジュールをみて。こんなにつまってんのよ、忙しくてしかたがない」

一方、私はといえば、スケジュールが詰まっていると、それだけでもうストレスになる人間である。生き方も性格もまるでちがう。

でもまあ、せっかく寄ってくれたんだからコーヒーでもどうかと、言いかけたら、彼女はもう背中をみせ、車に戻って走り去って行った。その夜、私は自分が無駄なことばかりして人生を終わってしまうような不安に陥った。

あれから年月がたち静岡に住むようになってからも、小さな、庭ともいえないような庭の草取りをたまにしているが、そんなとき、ふっと彼女の赤い革のしゃれた手帳を思いだすことがある。

たしかに、あの土地は住みやすいとはいえなかったが、大変なこと、面倒なことを体験すると、心に筋肉がつく。それで、何かに取りかかるときには、広すぎた庭の雪掻きだの草取りだのを思いだして、初めの一歩、一歩が百歩、と気合いを入れることにしている。今では,あの住みにくさも彼女も懐かしい。

※プロフィール、イラストのうまい人が描いてくれました。前のは自分で描いてましたが、あまりに下手だったので。だいぶ若くなって照れますが、イメージはこんなかな?

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