紅ひとつ

昨日、坂道をおりていく途中の道端に、椿の花が一つ咲いていた。夕暮れに鮮やかな紅の一輪。まだ咲きたての感じで初々しかった。けれども、今日みたら、もうなかった。枝ごと折って行ったのだろう。痛々しい感じと腹立たしさとがないまぜになった。ときおり、道端にはめずらしい花がある。けれども、翌日にはもうない。あっけにとられることも多い。

梅の花も枝ごと折られていることがある。チビまる子のための貼紙も貼るたびにたちまち剥がされている。性善説と性悪説があるけれど、このごろの私は性悪説に傾いている。自分もそうだが、無自覚でいると、どんどんだめになっていくからだ。

花壇の花が引き抜かれ、投げ捨てられていることもある。それでもめげずに、また花は植えられていた。

心が寒くなってしまうときには、空をみあげることにしている。空に向かって木々の枝はすっくと伸びて、重い気持をすくいあげてくれる。

風の又三郎が、すぐそこの枝にいるように、ごうごうと風が吹くときの枝々は、風に逆らわず身を任せている。身をしならせてやりすごすことだと、教えているようにもみえる。

 だれもいない丘の上で、木々は近づいて寄り添うこともできないけれど、なんだか適度な距離を保ちながら支えあっているようにも感じられる。

チビとまる子も二匹で支えあっている。一匹ずつのねぐらをこしらえてやっているが、寒いときには片方のねぐらに二匹温めあって寝ている様子がみてとれる。

立派なまる子餅

 

池の中では、鳥の逆立ち。なにか餌を探している様子。

鳥の逆立ちは、このごろよく見る光景。ちょっと滑稽で、思わず笑ってしまう。こむずかしいことを考えているより、まずおいしいものを探せといっているみたい。たぶんそれが生きることの基本だ。

 

 

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