赤い実は縁起物
いろんなものに実がつく季節になると、もの思うことが多くなる。
今年はコロナがあって、クリスマスも正月もお預けという空気。そのぶん、考える時間もふえる。いいことだが、いやなこともつい考える。自分のいやなところを数え、コンプレックスに陥っていたある日、それがどうしたの? と、ふいに思った。
今年はクリスマスのイルミネーションもさびしい!
来た道を振り返ってみれば、思っていたのとはずいぶん違っちゃったなあと思うけれど、もうそんなことに囚われるのはよそうよ、という天の声を聞いた気がした。
なんとかなるわさ、と根拠のない楽天主義に流され、眼の前のことを追いかけてしまう性格。大事なことはついつい後回し。結果、厳しいことが待っていることになる。なのに、懲りない。そして、喉元すぎれば熱さを忘れ、しばらくするとまたおんなじ失敗をする。
人生の指標は?
そういう経緯があって今があるわけで、そして、人生というものはキッチリと辻褄があうようにできているらしく、眼をそむけ、避けてきたことが、あとで何倍もの負荷になって還ってくる。あの時ちゃんと向き合えばよかったと悔やんでも、あのとき勇気をもって戦えばよかったと泣いても、どうにもならない。
でも、もういいか、それもこれも全部ひっくるめて自分なんだから、ここいらで認めてやる、と思うことにした。
石川啄木の詩に、「友ががみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻と親しむ」という有名な詩がある。実際、ネガティブな気分に陥っている時は、どの家の明かりも温かそうにみえ、賑やかな笑い声が聞こえてきそうで、足取りが重くなる。
で、そんな気分の時は、早く家に帰って温まるのが一番だ。犬や猫がそばにいればなおいいけれど。
あたし、植えられてます。
よく母がいっていたことには、腹を立てると、それだけ老けるんだそうな。亡くしてからなお、母の言葉はいちいち重い。これからは、自分にもっと優しくすることにしましょう。一日の終りには、できなかったことよりもできたことを考えることにして。
きのうは、チビまる子をみて、独り言を言いながら近づいて眼を細める人がいた。脚が悪そうで、丘の上までようやく上ってきたようにみえた。
チビとまる子は、よくかくれんぼをして遊ぶ。
できれば、そんな人たちに、ゆったりとコーヒーでもふるまいたいような気持になる。いってみれば、丘の上の猫カフェ。
通り過ぎる人と何度か顔をあわせているうちに、どちらからともなく話をし、そうして、ある日、ぷっつりと顔を見なくなる。いろんな人生の断片をかいまみて、なんとなく励ましあっているようだな・・・と、こちらは勝手に思っている。
けれど、肝心のまる子は、お腹がいっぱいになるとアンニュイな顔をして、ぷいと背中を向ける。