十六夜のバラ

今夜は、いざよい。満月の次の夜のことを、十六夜(いざよい)という。秋も終わり、しだいに空が澄んできて、丘の上は日が暮れると急に寒くなる。十三夜は知っていたが、「十六夜」は、丘の坂道でよく会う方から教えてもらった。「いざよい」には、ためらうという意味もあるらしい。なにかとためらっているうちに、もう12月だ。

12月1日は、毎年、池の周りにクリスマスのイルミネーションが点灯する日。今年は竹明りが配されて、温かみが増した。

華やかで大掛かりなイルミネーションは、あちこちにすばらしいものがあるけれど、こんなふうにこじんまりとして、和のテイストが加わったものも、また一味ちがって楽しい。子供たちが近づいて手をかざし、歓声をげている。

少し前に、日頃、猫のことなどでなにかと助けてもらっている方から、鮮やかな黄色のバラを頂いた。ブログ(虹の向こう)をみてくださったようである。頂いた時はまだ蕾だったが、ちょうど満月にあわせるようにして開いた。

いつもの部屋がちがってみえた。花があるだけで、部屋は見違えるように明るくなる。気分が変わって、ちょっとおしゃれをしてみたくもなる。そういえば、しばらくスカートを穿いていなかったなあなどと考える。

花束というのは、たいてい思いがけなく頂くものなので、記憶に残るんだと思う。小さな野の花を摘んだものから大きなものまで。庭に咲いてある都忘れを摘んでさしだしてくれた人は、山形にきたのなら都を忘れることだ、と言った。胸の中を見透かされていたのだと気づいて、言葉が出なかった。

大きな花束を頂いたのは、ある文学賞に入賞したとき。それから42歳の誕生日のときに、厄払いの意味で42本の赤いバラを、やはり小説関係の方から頂いた。ずっしりと重く、それだけのバラにみあう花器を持たず、慌てて買いに行った。

黄色のバラは初めてで、マンネリ気味の気分をアップしてくれた。なので、毎日、いそいそと水を取り替え、水切りをして活けなおしている。

けれど、考えてみると、自分ではあまり花束を贈ったことがないのだ。なぜなんだろう、花がとても好きなのに。

早く渡さないと花が弱ってしまう。そう思うと、気がせいてしかたがないからか。そのうえ、「花より団子」というほうで、つい食べる方に気が向いてしまうからだろうか。なんとも洒落っ気のない話だ、これでは、まる子とおんなじだ。いやいや、まる子に怒られそうだ。

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