雨の音

雨の音で眼がさめる朝、しばらくは屋根に落ちる雨の音を聞きながら物思いにふけっている。子供のころには、家の屋根は茅葺で、屋根から伝わる雨の音はなく、外に降る雨音から感じるものだった。

上京後、下宿の部屋にいたころは、屋根に落ちる雨音で眼がさめるときはうんざりした。歩き方がへたな私は、雨だと、駅まで歩くうち泥ハネが後ろ脚のすねまであがり、ひどいありさまになるからだ。駅についたらすぐに、濡らしたハンカチで、ストッキングの泥はねを拭いてから電車に乗っていた。

その部屋は家賃が安かったから、玄関とトイレ、台所は共同だった。近くに大学があって、よく学生がたむろしていたのだが、とにかく物がなくなるのである。井上陽水の歌に、「傘がない」という唄があるが、傘どころか、靴までなくなっていることもあった。

玄関の靴箱に置いた靴、傘、台所の自分の割り当て分の棚に置いてある米や味噌など、とにかく共同の場所に置いたものはすぐに消えてしまう。東京で暮らすことの怖ろしさが身にしみたのだった。

じつはもっとちゃんとしたところに住んでいたのだが、そこの門限を何度も破ってしまい、罰則で出なくてはならなくなったのだ。上京したてのころは先に上京していた姉が探してくれた、女子ばかりの寄宿舎風の部屋だった。

【イラストはインターネットから引用】

新宿の駅から歩いて20分ほどだが、大きな木に囲まれた教会の隣にあって静かなところ。ただ門限が厳しかった。少しでも遅れると、黒い僧衣をまとった体格のいい神父が玄関で待ち構えている。門限に遅れておそるおそる玄関の扉をあけると、彼は黒い影のように立ちはだかり、たどたどしい日本語で玄関の時計を指さしながら怒った。

住む部屋が変わり、いろんなものがなくなることを知ってからは、自分のものはすべて部屋の中に入れておくことにした。向かいの部屋も女性の一人住まいだったが、ほとんど言葉をかわしたこともなく、都会で暮らすということはこういうことなのだと知った。

住むところが変わると、雨の音も変わる。家族を持ち、マンションの三階で暮らしていたころは、雨の音は屋根からではなく、外の車の走る音で伝わってきた。あいかわらず、私の歩き方はへたで、駅までの道でいつも難儀をしたけれど。

今は、眼がさめて、雨の気配を感じるときは、ふっとさまざまな雨の音を思う。雨の音の変遷は、そのまま、時の変遷でもあって、丘の上に通うようになってからは、どこかで雨宿りをしているだろう猫たちのことを思う。どこで雨をしのいでいるんだろうかと。

三毛子は、今月の末あたりに里親さんの家へ行くこととなった。なにも知らずに雨の日にもにぎやかに動き回っている。

どうか先住猫さんたちと仲良くなれますように。虹の橋を渡ってしまった相棒のぶんまでしあわせになりますように。

雨や風におびえなくてもすむ暮らしは、やっぱりいいよねって、天国の相棒も、きっと見守ってくれてるんじゃないかな。

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