神様が誰かに気づくとき

                【茶畑の道祖神】

東京、神田の古本屋街を歩いていたとき、歩き疲れて入った喫茶店の隅の椅子の横、レンガの壁に、マジックで小さな落書きが書いてあった。

神様、どうか、私に気づいてください!

運ばれてきたコーヒーを飲み、窓の外をみながら、この落書きを書いた人はきっと女性だろうなあと思った。なんとなくだが、その気持がよくわかったからだ。当時、私は物書きとしての芽が出るか出ないかの瀬戸際に立っていて、悶々としていたからだ。

新人賞の応募では、今は重鎮となっている作家から酷評されて次席になり、しかも作品は掲載されなかった。一等になったのは、大学在学中の若くてかわいい女子学生だった。夏休みに暇だったから気分転換に書いたもので、作家になるつもりなんかないと平然と言っていた。

あちらは暇つぶし、こちらは人生を賭けての勝負。なのに、神様はさらっと、かわいい女子大生に味方した。世の中って、こんなもんなんだなあと、笑ってしまいたいくらいだった。

ほかの文学賞に応募した作品も最終候補には残ったものの、今ではすっかり売れっ子作家になっている人が受賞して、私のはまたも落選。

神様・・・、と落書きしてある壁のそばには窓があり、忙し気に歩く人々がいた。しばらくぼうっと外をながめていたが、こうしてはいられないと、立ち上がった。家に帰って掃除をしよう、片付けよう。家の中には原稿やら本やら、新聞やらが散らかりほうだい。心の整理をするには、まず、家のなかの整理をすることだ。

【二匹で坂を転がってます。】

それ以来、鬱屈が溜まると、家の中の整理にとりかかることにしている。小説からは離れた。神様が私に気づいてくれなかったのではなく、大勢のなか、ひょっこりと顔をだす力がなかったのだ。そうと気づいてからは、こだわりが消えた。

なにか危ないめにあって無事だったときなど、これってなにかに護られているんじゃないかと思うときがある。そういうときには神様の存在を感じてしまう。

【たまには見晴らしのいい場所にたってみる。】

というわけで、無理に背伸びをするのをやめてからは、というか現実に直面せざるをえなくなってからは、小さなことやありきたりなことに、けっこう喜びを感じられるようになって、毎日、猫を眺めながら暮らしている。

ひさしぶりに見た野苺の赤い実にも、ふっと、一緒に摘んだ幼ななじみの顔を重ねたりして。彼女、同窓会で会った時にえらく若々しくなっていたので、わけを訊くと、新しい出会いがあったのだという。離婚して子供も一人で育てていると聞いていたが、子供も自立し、一緒に旅行するようなパートナーができたのだそうだ。

声を弾ませて語る彼女は、過去ではなくて、「今」を生きている感じ。神様がきっと、必死で頑張った彼女にに気づいてくれたんだね。

かけっこが早く、人気のあった彼女と、校庭でドッジボールをする輪の中に入っていけなかった私。なのに、わりと仲がよかった。いまだに彼女は同窓会でも人気者だ。

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