一日で一番焦るときは、たぶん夕飯どき。丘を降りるとき、晩御飯なにしよ、などと冷蔵庫の中身に考えを巡らしている。以前は嫌いだった料理を、最近はけっこう楽しんでいる。なぜ? 料理はセンスだなあと思うようになったから。センスはなにごとにも大事な要素で、しかも自由自在だ!
子供のころの晩御飯は、駆け引きそのものだった。板の間の大きな食卓を囲んで大家族が食べた。祖父と父は特別に一人だけのお膳で酒がつく。あとのものは、でんと食卓のまんなかに並ぶ大皿のおかずをそれぞれ取り分けて食べる形。
なので、好きなおかずだからといって、自分だけ大盛りにするわけにはいかない。子供心にほかのものにも配慮しなくてはならないことはわかっていた。それでも微妙に駆け引きがあって、それとなく自分の好きなものは多めに取り、まわりの様子をちらちらみながら盛り付けるテクニックにたけていなくてはならない。
あんなにたくさんの食事を作っていた母はいったいどうしていたのだろう。夫婦だけの食事を作るのさえ、毎日のこととなれば、いろいろ面倒なこともあるというのに。
家々の明りがともり、煙がそこかしこから立ち昇る山里の夕餉どきは、子供たちも仕事をこなさなくてはならず、忙しかった。
畑に行って、キュウリやナスなどを収穫したり、野菜につく虫を箸でつまんで歩いたり。バケツにいっぱいになると、仕事は終わり。
けれども夕方は時間を忘れて遊ぶこともあって、夕食に遅れて叱られ、家の中に入れてもらえないことになる。
しかたなく厩に行って馬に話しかけてみたり、縁側の端をねぐらにしている犬と一緒に坐っていたりしてると、そのうちに母が、家に入ってよいと声をかけにきてくれる。
お前が女に生まれてくれてよかったと母はよく言っていたけれど、私は男に生まれたかった。なにしろ男の方が偉くて自由に思えたから。だが、今は、むしろ男のほうが不自由なような気がする。
航海する船に羅針盤があるように、人生にもいい方角を示してくれるものがあればいいのにと思う。考える前に走りだしてしまう私には、とくに。
古墳の丘の富士見平にある方位計
古墳の丘の上で夕方を迎えるようになってから、ちょうど4年。このごろは日が短くなって、下に着くころには薄暗くなり、月を仰ぐことになる。
猫たちの夕餉
13夜