おだやかな日

うららかに うらうらなり  -万葉集-

公園の水辺では、鵜が、翼や尾羽をいっぱいに広げて日の光を浴びていた。全身の羽すべて、あますところなく。鳥の羽ってこんなふうになってるんだ。なんて機能的なこと。

彼女はとても愛嬌がある。おもちゃを差し出すと、とりあえず遊んでくれる。だが、すぐに飽きてぷいと横を向く。チビにも同じようにしてみるが、さっぱり遊んでくれない。それはそうだ。まわりは生きている玩具にあふれているのだから。それ以上のものはないよね。

空には、まる子雲がぷかりぷかりと浮かんでいた。地上のまる子のように、かなり太めだ。

なんとおだやかな春の日。芽生えてくる木々の芽や草の匂いを感じながら、ゆるい風と日差しに身をゆだねていると、体がとろけていくようだ。

遠くには、春の、霞んだような富士があり、それは、ここに古墳が造られたときよりもずっと前からの風景で、そしてこれからもずっとあるわけで、そんな揺るぎのないものをみていると安心する。きっと毎日、不確かなものばかりに晒されているからだろう。

猫は、明日のことなど考えない。今このときが満たされていれば十分。今の状況の中で一番いいと思う場所を探して眠り、ほかのしあわせをうらやむこともない。

そんな猫たちをみていると、たいていのことは考えているほどのものではなく、なるようになって流れていき、いいことも悪いことも巡り巡ってくるんだなあ・・・なんて思ってしまう。

坂道を登って行くとき、敷地内の音楽堂からものすごい音が響いていたので、帰りがけに寄ってみると、アマチュアバンドのフェスティバルが開かれていた。時間が遅かったせいか、見る人はまばらだった。

観客はまばらだった。でも彼らは何度も音合わせをしてから始めた。雨が降り出したのは不運だった。

このところ家の中の整理をしているうちにいろんな過去が戻ってきて、エネルギーが枯渇しかけていたから、彼らが出すものすごい音に、ボオーッとしてんじゃねえよ、とヤキをいれられた気がした。

これはどうしても捨てられないと思っていた物であっても、ああもういらないなあと思うときはくる。そういうわけで、我が家の押入れはかなり空き、気持のほうも風通しがよくなった。

 

 

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