全力疾走

咲いたばかりの藤棚のそばの坂道を、近くの高校の生徒たちが全力疾走で駆け上って行く。指導している先生の話によると、しだいに距離を伸ばしていくのだという。視線があうと、生徒たちは「チワッ」と、大きな声で挨拶をしてくれる。力強い声が、耳に心地よい。

山岳部の生徒たちも負けじと20キロもの荷を背負い、坂道を小走りで登って行く。ゆっくりと登って行く私たちとの距離を、またたくまに広げて行った。

彼らをみていて、生きていると全力疾走しなくてはならない時期があるよなあと思った。そのときはただ必死だったのだけれど、あとから考えてみると、あんなことはもうできないなあと感じることがある。

その藤の花のそばに、なにか妙なものを持ってうろうろしている女性と、カメラを持った男性がいた。

それ、なあに?

  • 声をかけてみると、どうもこれをかぶった写真を撮りたくて、いい場所を探しているようだ。踊りかなにかに使うものですかと尋ねたら、実際に写真に撮ってみてから考えるのだという。

ここは、さまざまな人がやってきて、さまざまなことをしている場所だ。お綺麗ですね、と言うと、「いつも自分にそう言ってるの」と笑った。なるほど、私も毎日、いいことを呪文のように唱えてみることにしよう。ときおり、通りすがりの知らない人から素敵な言葉をもらうのも、ここにくる楽しみの一つになっている。

坂の上のほうの茂みに出現した「希望の木」は、あれから枝を伸ばし、みごとに葉を茂らせていた。幹を切られた木から小さな新しい芽が出て、こんなに伸びているなんてすごい。やっぱり希望の木と名付けただけのことはあるぞ。

 

平和だなあ・・・。いつまでもこんなふうに呑気でいてほしい。あなたたちがこんなふうにしていられるように、なんとか通ってくるからね。全力疾走に近いんだぞ、毎日、この丘に通うってことは。私はこのあいだから風邪をひいて、熱もあって、今日はとくに辛い。でもまあ、あなたたちのこんな顔をみると、疲れも消えてしまうけれど。

帰り道、乳母車に乗った猫に出会った。話によると、去年の藤の季節には隣に犬がいたそうだ。いつも二匹仲良くしていたのが、犬のほうが死んでしまい、そのあとこの猫は不思議なことに、その犬とそっくりな行動をしていたのだという。きっとあまりに悲しくて、乗りうつってしまったのだろうか。ちょっと姫に似ている猫だった。