池の淵の黄菖蒲
静岡にきて、「やっきりする」という言葉を知った。どうも、腹が立ってしかたがないとか、いらいらするとか、そういったときに使うようである。私の故郷(八戸市)では、そんなときは「肝が焼ける」(きもがやける)という。
「肝が焼けると体に悪いし、老ける」と、母がよく言っていた。だが、先日、そんなできごとに遭遇した。
そんな時に癒してくれるのが、動物の存在だ。三毛子は、あちらと思えば、はたまたこちら、というふうに毎日はじけている。
【このワンコたちは、丘の上の風を受けて、とても気持ちよさそう。】
みんな、コロナ現象のせいか、苛立っているような気がする。でも、動物たちは、人間の不安をよそにのんびり。
【ナナは、餌を毎日やりにきてくれる人がみつかってから余裕の風情。以前は餌をもらうのに必死で、こんなふうにリラックスしている姿をみせることはなかった】
公園の駐車場が先月の27日から閉鎖された。自転車や徒歩では通えない距離の場所に住むものとしては、猫たちに餌をやることができなくなる。なんせ、相手は生き物である。数日ならともかく、長期間ともなれば大変なことになる。それで駐車許可をお願いしてみると、さいわいにも許可がおりた。
車に許可証を提示しているのだが、わざわざ追いかけてきて、くってかかってくる人がいた。事情を説明しても、相手はやっきりしているから、なかなかの迫力で返してくる。しだいに、こちらも肝が焼けてくるのである。
やっきりしている人と肝が焼けているものどうし、うまくいくわけがなく、言葉をつくして説明をしたつもりでも、たがいに、なにかすっきりとしない。そのまま丘の上へと登って行き、まる子たちに餌をやっていると、今度は、猫に餌をやるなと言いながら、おじさんが険しい顔で近づいてくる。
なんでも自分も以前に餌をやっていたのだが、やるなと言われてやめたのに、なんであんたがやっているのかと強い語調で言う。こちらは、ようやく胸のなかの焼けた肝が冷めかけてきたところだったのに、おじさんの剣幕に煽られてまた焼けてくる。
やっきりしている様子の相手に、これまた事情を説明し、もしも、餌をやる気があるのなら協力をしてほしいと言うと、それはいやだという。
ニセアカシアの花
おじさんは、自分の好きなときにきて餌をやりたいらしい。縛られるのはいやだけれど、猫には近づきたいという無責任な考え。そんな人たちがよってたかって、まる子を肥大化させてしまったわけで・・・。それでも餌やりをやめたおじさんは、まだいいほうかもしれない。
数日前には、老人がステッキをふりあげてまる子に近づき、この猫は子供を産みそうではないかと険しい顔を向けた。餌なんかやるから、ふえるんだと言う。それで、この猫は太っているだけで、避妊の手術をしているからふえないのだと説明すると、憮然とした顔で去って行った。
こういう人たちには、これまで数えきれないほど会ってきた。さげすむような視線や非難の眼にも。それでも、なぜだか続いている。
「やっきりする」も、「肝が焼ける」も、ただ「腹が立った」という言葉では表せないニュアンスがあって、みょうに胸に入ってくる。でも、なるべく、やっきりしたり、肝が焼けたりするようなことは避けたい。逃げるが勝ちと思っているが、逃げられないときには対峙するしかない。
腹が立った時のおまじないの言葉に、「おんにこにこ、腹立てまいぞやそわか」という言葉があるという。稲森和夫さんの著書、「生き方」に書いてあった。
三毛子のこんな寝姿をみながら、「おんにこにこ、腹立てまいぞや、そわか」。どうやら、おまじないが効いてきたみたい。