しんしんと

何年かぶりに炬燵を出した。炬燵に入るとなぜだか、トランプ遊びをしたくなる。きっと昔のことがよみがえるからだろう。今のようにスマホやゲームのないころのことだ。よく、きょうだいで炬燵板の上にトランプやかるたを並べて遊んだ。負けたものがリベンジするまで続けたがるので、しまいにはくたびれた。

6人のきょうだいのうち、年賀状がたくさんくるのは一番上の姉。性格が明るい姉のまわりには友達が多かったのだ。今でも姉のまわりには人が集まってくる。

任侠映画が大好きだった兄もこのごろはさすがに年を取り、以前のような迫力はなくなったが、田舎ということもあって、いまだに子供のころのグループでよく集まっているようだ。「おまえの兄貴にやられたから仕返しする」と言われ、何度かいじめられ、くやしい思いもしたけれど。

3番目の私は、友達と外で遊んだあとは炬燵で本を読むのが楽しみ。よく、妹二人と炬燵の場所取りで喧嘩になった。一番下の弟はやんちゃだったが、姉たちをみてそれとなく生き方を学んでいたようで、要領がよくそつがなかった。それがよかったのか、きょうだいのなかでは一番の出世。

大きな炬燵も、家族やきょうだいが多いせいですぐにいっぱいになる。大人たちは、囲炉裏のそばで魚を焼いたり、酒を飲んだりしている。親戚や近所の人たちもよく訪ねてきて、火のまわりにはにぎやかな声が飛び交っていた。

おとなになって、きょうだいはそれぞれ家庭を持ち、それぞれの色合いを持つようになって、今に至っている。ほかのきょうだいたちは、正月や孫の夏休みになると、けっこうにぎやかになるようだ。

盆も正月も夫婦だけの暮しは、にぎやかな声が近所から聞こえてくるとさびしい思いに駆られたものだが、このごろはのんびりと、ただ静かな時間が流れていく正月もまたよしと思うようになった。おたがいに好きなことをして、飽きたときには炬燵に入ってお茶でも飲む。でもやっぱりババ抜きができないのは、つまらない。

※ここまでの写真はイメージ。

雪国に住んでいたころ、雪が降り積もるときには、家の中にも雪の気配が満ちてきた。炬燵の上に転がっているボールペンや本や新聞など、それらの上にも、しっとりとした雪の気配が降り積もり、そっと指を伸ばせばひんやりとした感触が伝わってくるのだった。

こんなに深い雪の中でも、猫たちはよく雪中散歩をしていた。

そのうち、屋根に降り積もった雪が轟音とともに滑り落ちてくる。静かな時間を突き破るように。気温が下がる朝方には、裏の林から悲鳴のような音が響いてくる。樹木の幹の中の水分が凍って膨らみ、裂ける音だ。あの雪の日々はさまざまな暮らしの不便や辛さを伴ったが、今では宝物のような記憶になっている。

裏の林とのあいだにある水路を猫たちは渡って行った。滑り落ちる危険も顧みず。

もしもチビとまる子が雪を見たら、どんな反応をみせることだろうか。きっと喜んで走り回るだろうな

 

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